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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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『いま、会いにゆきます』(2) - 作家の想像力の限界性
『いま、会いにゆきます』(2) - 作家の想像力の限界性_b0018539_2041799.jpg確かに巧(たっくん)は傷つきやすいナイーブな感性を持っていて、純文学小説作品で主人公役を張る資質と属性を十分に持ち備えている。語り口や比喩表現は村上作品のそれを連想させるものであり、つまりは現代小説の主人公としての基準に則していると言えるのだろう。しかしそれにしても、電車に乗れない、車の運転ができない、エレベータに乗れない、映画館に入れない、教室での講義を静聴できない、記憶力が極端に悪い、空腹や売薬のために発作を起こして死にそうになる。そういう生まれながらの劣性な体質の人間を主人公に設定するというのも、見方によっては何だか凄まじい感じがする。確かに世の中にはハンディキャップを背負って生きている人間は多くいる。だが生来のハンディキャップの人たちの真実というのは、この小説の巧のような(これほど安易で)完結的な特別の生き場所や生き方を与えられているものだろうか。そういう問題も何となく考えさせられる。



『いま、会いにゆきます』(2) - 作家の想像力の限界性_b0018539_20412855.jpgこの主人公はあまりにできないことが多く、できることが少なく、要するに存在として夢がなく魅力がない。共感しにくく、感情移入が難しい。序盤でこの不具合カタログの説明がなされた時点で本を読み進む気力が萎えてくる。小説を読むということは、やはりその作家の想像力世界のショーを堪能させてもらうことであり、作家の持つ豊穣で深遠な知的空間の中で想像力のトランポリンを楽しませてもらうということではないのか。私はそう思う。村上春樹の『海辺のカフカ』はそうだし、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』もそうである。小説の商品価値はやはり想像力なのだ。だから作家は単に文章が書けるだけでなく、不断に勉強をしていなければいけないし、ドラマを構成する題材や問題意識を豊富に発見し蓄積していなければいけないのだろう。それが職業としての小説家なのだろう。この小説に描かれる世界は、人間にしても、人間を取り巻く環境にしても実に薄くて弱い。そう言わざるを得ない。

『いま、会いにゆきます』(2) - 作家の想像力の限界性_b0018539_20414546.jpg絵に喩えるなら、色がないというのではなく、デッサンが弱い感じ。巧も澪も個性はあるのだけれど、輪郭が曖昧で存在感が希薄な印象が強いのだ。澪は何か最初から最後まで幽霊のような宙に浮いた感じがする。尤も村上作品で出る女はこういうタッチで描かれる場合が多いので雰囲気はわかる。男である巧に生活力がなく、女である澪にそれがあるという設定であるならば、また「いま、会いに行きます」と決断して物語をドライブする主体が澪であるならば、真の主人公が澪であるならば、澪の人間性にもう少し躍動感と言うか、常人を超えた能力や才覚を示す場面を挿入して説明して欲しいのだが、女の澪は村上作品的なスケルトンなタッチのままであり、男の巧はひたすら脆弱で、小説自体の立脚点があまりに弱いと言うか、安定感がなくて、この父親とこの息子はいつ破滅するのだろうかという不安感ばかりが先行する。物語の理解のバランスが取りにくい。

『いま、会いにゆきます』(2) - 作家の想像力の限界性_b0018539_2042678.jpg思うことが幾つかあって、一つは作家の想像力の不足を遮蔽するための前提装置としての主人公の無能設定なのだろうということと、もう一つは、現在の日本の男が主人公の巧のようにどこまでも生活力のない、可能性や将来性の見えない細々とした生き方をしているのだろうということ、そしてそのことが(逆に)読む側のリアリティとして伝わって広範な読者層を共鳴させているのではないかということだ。経験が少なく、仲間が少なく、知識が乏しく、世界が狭く、夢が小さく、語彙の少ない日本の若い男たち。貧しく小さな小さな世界で、妻と一人息子との家族の絆だけに支えられて、その愛の世界で生きている男たち。まさにそれが今の日本の30歳くらいの男たちの生の実像なのだろう。清貧と言うにはあまりにもの哀しい世界。『アフターダーク』を評した際に指摘したことだが、村上春樹は小説の中に常に現在の日本の社会的経済的真実を映し出す。似たようなものを『いま、会いに行きます』にも感じた。

『いま、会いにゆきます』(2) - 作家の想像力の限界性_b0018539_20423032.jpgアフターダーク』の村上春樹は敢えて多く書き込まないように止めている(寸止め)。多彩にせぬよう、深刻に掘り下げないように、意図的に作品のスケールをコンパクトに抑えて現代日本の若者像を描き込んでいる。私はあれは実験だと思っていて、今の時代の若者にリーチしグリップするための方法的作為だろうと見ている。市川拓司の場合は、恐らく豊かにできないのだろう。それを無理にやろうとすると失敗してしまうのだろう。だから世界を小さく小さく縮小させる。縮小均衡の人生と世界。それは今の日本そのものであり、今の日本の男たちそのものだ。自信が無いのであり、すぐに傷ついて瀕死になるのであり、自己改造や自己拡張の挑戦は容易にできないのであり、つまりは塞がれているのだ。そういう男と女と子供がいて、妻であり母である大黒柱の女が死に、「復活」をして永遠の希望となる。その物語に心から感動して泣いている日本人。何か言いようもなく辛い。
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by thessalonike | 2004-11-25 20:30 | 『いま、会いにゆきます』 (5)   INDEX  
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