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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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『いま、会いにゆきます』(4) - プロレタリア文学の消費者
『いま、会いにゆきます』(4) - プロレタリア文学の消費者_b0018539_12292554.jpg気がつけば日本人の多数がプロレタリア化して、21世紀の日本に新しいプロレタリア文学が出現している。杞憂や妄想であればよいが、そのような感慨と着想に捉われて容易に脱け出すことができない。コンビニと百円ショップとファミレスとユニクロとTSUTAYAで生活を完結させて暮らしている森永卓郎的な経済的現実もそうだが、島田紳助と太田光と飯島愛に週末のテレビで政治評論をさせて、それをポカーンと口を開けて嬉しそうに涎を垂らして見ている日本人の文化的現実がまさにプロレタりアそのものだ。本屋の店頭で堆く積まれている『電車男』や『キッパリ!』や『いま、会いにゆきます』は、太田光の政治番組に涎を垂らした同じ人間たちが、テレビゲームのパッケージソフトでも摘み取るように本屋のレジカウンターに無造作に置いて、一時の時間潰しをして消費するためのコンビニエントな簡易文化商品であるように思われてならない。



『いま、会いにゆきます』(4) - プロレタリア文学の消費者_b0018539_12315272.jpg本屋のカテゴライズでは『電車男』も文芸書の棚に分類されるのである。であるとするならば、その文芸なるものは、プロレタリア文学と呼ぶ以外に果たして何と呼べばよいのか。まさにプロレタリア文学だ。八十年前の日本のプロレタリア文学は、当時の日本の被支配階級である貧農小作と低賃金労働者に覚醒を促して革命運動に導くための文芸運動だったが、目の前の新しいプロレタリア文学は、プロレタリア化したマスが安直に感動や満足を得るための粗末でお手軽な文芸商品(消費財)である。無論、こういうものは昔からあったし、今に始まったことではないし、三十年前だって本屋で大量に捌けていたのは川上宗薫や梶山季之のエロ小説だったに違いないのだが、しかしそれでも当時と現在と較べれば何かが根本的に違うような気がしてならない。眼前のプロレタリアたちの文化的感性においては感動と暇潰しの境界が無いのだ。

『いま、会いにゆきます』(4) - プロレタリア文学の消費者_b0018539_15591584.jpgネットの中の書評などを読みながら思うのは、その言うところの「感動」は決して偽りではないのだろうが、そして、その感情表現を無関係な他者が一方的に卑しめたり貶めたりするべきではないのだろうが、その実相は、少し引いたところから見れば、あまりに素朴な感情の直接的流出表現であり、素朴と言うよりも動物的と言った方が適当ではないかということだ。情報処理のインテリジェンス機構が小さい。メモリー容量も小さい。最近の若い日本人は感情の表現を無闇に乱発して、そこに理性や倫理による抑制を一瞬たりとも介在させない。思ったままの生理的感情を、幼稚に無神経に、直接的な言葉にして吐き出してそれで終わる。感動したとか、泣いたとか、面白かったとか。ブログの書評蘭にはそんな頭の悪い小学校低学年の読書感想文の切れ端のようなものが殴り書きされていて、およそ書評の概念に到達していないものが、いやこれで十分到達しているのだと乱暴に自己主張している。

『いま、会いにゆきます』(4) - プロレタリア文学の消費者_b0018539_15545920.jpgネットに溢れかえる『いま、会いにゆきます』への直情的感動の賛辞群を見ながら、何か未熟で我儘で親の躾が不行き届きな十代の男女が、電車の中で車内が暑いだの寒いだの無遠慮に大声で喚き散したり、レストランの中でこれは美味いとかこれは不味いとか大声で騒いで周囲に迷惑をかけているような光景を連想する。その感動の中身を私は大いに怪しみ疑う。母親が栄養のバランスを考えて時間をかけて拵えた手料理を食べても、ファーストフードのバリューセットをガツガツ胃袋に詰め込んでも、満腹になって満足を覚えるのは同じなのだ。脳下垂体が示す生理反応は同じなのである。ブログの書評欄を埋め尽くしているテキストは、自分が食ったファーストフード商品の題名と著者名の羅列であり、美味かったとか不味かったとか、思ったよりは美味かったとか、ネタバレするから中身は説明しないとかの言い散らかしではないのか。

『いま、会いにゆきます』(4) - プロレタリア文学の消費者_b0018539_12441825.jpg本当はネタバレするから書かないのではなく、それは単なるエクスキューズであって、あらすじを頭の中にリロードして文章で構成し要約する言語能力が欠落しているのであり、ファーストフードのシンプルなメニューでさえ、その食い物がどんな中身でどんな味覚だったかを言葉で表現することができないのだ。食ったとか満腹になったとだけしか言えないのである。まあ考え直せば、ジャンクフードというものはそのようなもので、味覚がどうだとか延々と論ずる対象ではなく、食ったとだけ言えばいいものなのかも知れず、ファーストフードを文化として議論するのはそもそも出発点から間違っているのかも知れない。プロレタリアたちがジャンクでチープな文芸書をせっせと腹に詰め込んで文化消費している。そうして出版業界の資本主義は市場の実態をよく知っていて、ジャンク商品の追加供給に余念がない。ブロイラーがペレットの餌を貪っているようだ。
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by thessalonike | 2004-11-23 23:30 | 『いま、会いにゆきます』 (5)   INDEX  
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