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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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『いま、会いにゆきます』(5) - 二組の両親の捨象の問題
『いま、会いにゆきます』(5) - 二組の両親の捨象の問題_b0018539_14344772.jpg死んだ妻が幽霊になって戻ってくるファンタジックな小説に現実的な論理的整合性を求めても仕方がないし、不粋な話には違いないのだけれど、この作品の設定において一点だけどうしても気になる問題があって、それは巧と澪の両親の問題、つまりこの家族の肉親の人間関係の問題だ。巧の両親も澪の両親も健在で、巧の一家のすぐ近くの町に住んで暮らしている。電車で三十分とか一時間の距離だ。二組の両親の人間像や生活像については何も描かれていないから想像しようもないが、少なくとも巧父子や遠山(ノンプル)のような不幸な影は見えず、つまりは中産で平凡で健全という予想しか読者はできない。そして巧は一人っ子という設定になっている。どうして巧の母親は祐司に会いに来ないのか。どうして祐司と巧の面倒を見に来ないのか。たった一人の息子のたった一人の孫を心配しないのか。



『いま、会いにゆきます』(5) - 二組の両親の捨象の問題_b0018539_1435549.jpgその点はやはりおかしな問題であり、指摘しないわけにはいかないだろう。巧の母親だけでなく澪の母親にしても同じ事が言える。澪を不幸で失ったればこそ、なおのこと、祐司はかけがえのない存在であり、一時も目を離せない存在であり、自分が母親代わりになって育てようとするべき大切な大切な宝物の存在だろう。祐司が三日も四日も同じ汚れた服を着て小学校に通ったり、カレーライスを零して服にシミを付けたままでいるのを黙って見過ごしていることができるだろうか。考えられない。普通に考えれば、この小説で存在を捨象されている二人の祖母は、毎週一回は巧のアパートに通って、そこで祐司の面倒を見て、祐司に絵本や玩具を買って与えたり、お菓子を買って食べさせて遊んだりするものだろう。それが普通の家族というもので、祐司と巧の生活に接触しようとしない二組の両親の存在は、どれほど小説の手法の捨象だと言い張っても、読者の視線からはあまりに不自然に映って見える。

『いま、会いにゆきます』(5) - 二組の両親の捨象の問題_b0018539_14352396.jpgこの状況設定を読者一般に納得させるためには、物語の中で少年時代に巧と両親の間で何かがあったとか、澪と両親との間で何かがあったという仕掛を処理として手続しておかなければいけない。小説の設定に辻褄合わせを要求するつもりは毛頭ないのだが、なぜ私が両親の問題をここで持ち出したかと言うと、この小説の主題がまさに家族愛だからであり、メッセージが夫婦と家族の愛情の絆そのものだからだ。読者や観客が澪と巧の夫婦愛や家族愛に感動して心を熱くするのは、この三人の境遇があまりに孤独であり、生きる上で頼りになる条件が乏しく、まるで太平洋の荒海を小さなヨットで航行しているような心細さに溢れているからだ。寄る辺ない薄幸な設定そのものが読者に涙を誘う基本装置なのである。であるとするならば、本当なら、巧の両親も澪の両親も死んでいるとするか、あるいは離婚等の何かの理由で子供とは無縁の存在になっているというような設定の配慮が必要だろう。

『いま、会いにゆきます』(5) - 二組の両親の捨象の問題_b0018539_14353970.jpg家族の永遠の愛がテーマというときに、果たして、誰よりも祐司のことを思い心配しているはずの実在する人間をかく安直に捨象していいのか。電車で三十分の距離の、トマト菜園のできる一戸建の家で健康に暮らさせていていいのか。母親を失った悲しみで潰されそうになっている小学一年生の孫に無関心でいさせていいのか。そこまで不自然な捨象を方法化させてよいのか。そういう粗雑な捨象装置において描出された孤独感溢れる「家族愛」について、読者は簡単に感動したり号泣したりしていいのか。私がこの作品にシニカルになるのはそういう理由もある。この作品の感動の鍵は、澪の巧と祐司への強い愛情なのだが、その愛に感動するのは、小さな祐司が(社会的不能者である)巧と二人っきりで生きて行かなければいけないという不幸な現実への思いがあるからである。それが前提だ。ところが、そこからスッと引いて考えれば、実は祐司には二組のおじいちゃんおばあちゃんがいる。

『いま、会いにゆきます』(5) - 二組の両親の捨象の問題_b0018539_14355647.jpg二組の両親の年齢は六十歳前後になる。今の日本で最も経済的に豊かな安定した層であり、お金と時間の余裕を持って消費意欲の旺盛な活動的な世代である。団塊の世代。四十年前に大学紛争で大暴れして世の中を動かし、二十年前にはバブル経済の真ん中で塒を巻いていた世代だ。常に自信満々で鼻息の荒い世代。たった一人の可愛い孫の祐司を、あのような孤独と貧困の中に放っておくはずがない。..というような感想もあっていいのだ。感動して落涙したと言う前か、そう言った後に、この家族の背後にいる二組の両親はどうなのかというところに思いを寄せ、その捨象についてあれこれと考えてみてもよいのだ。小説を論じるということはそういうことでもある。物語に感情移入するとき、作者が正面に見せるものだけに心を奪われるのではなく、背景で説明したものにも視線を入れて、全体を眺めて判断してみてもよいのだ。私には、この両親二組についての処理は、澪が幽霊になって出る話よりも不自然で心に引っ掛かる。
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by thessalonike | 2004-11-22 23:30 | 『いま、会いにゆきます』 (5)   INDEX  
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