本と映画と政治の批評
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『ハウルの動く城』(2) - ソフィーは本当にハウルを愛したのか
b0018539_10202144.jpgソフィーとハウルの愛の物語として注目しても、この映画の中途半端な印象は否めない。見る側にとって最もわかりやすい結末は、二人の愛が固く固く結ばれて、その愛の力によってソフィーにかけられた魔法が氷解して、ソフィーの髪の色が黒く元に戻ることだろう。ソフィーの愛によってハウルが失った心を取り戻し、ハウルの愛によってソフィーが奪われた若さを取り戻す。そういう素朴で簡潔なラブストーリーのエンディングをプレゼンテーションしてくれれば、観客も作品に首を捻ってあれこれ無用に言い散らす必要はない。ところが映画はそうはならないのであり、何やら二人は「過去」に出会った経緯があり、時間のズレを引き摺りながら愛し合っているという複雑で微妙な設定になっている。時制をドラマの仕掛(タネ明しの装置)として使う演出は『千と千尋の神隠し』でも使われていた。前作ではその演出がまずまず自然に受け止められたが、今回は後半のドタバタが続く中でその鍵になる大事な逸話が漏らされるので、腑に落ちる感じがせず、逆に違和感を覚えてしまう。



b0018539_1024384.jpg二人が本当に愛し合っているという実感を持てないのだ。ソフィーがハウルに「あなたのことを愛しているの!」と告白する。記憶では(間違っているかも知れないが)その後からソフィーの曲がった腰が伸び、直立姿勢になって、顔は変わっても姿勢は最後まで変わらない。だが、このソフィーがハウルに愛を告白する場面が微妙であり、どうにも得心がいかない。なぜソフィーはハウルを愛したのか、愛を告白する挙に出たのか、それまでのストーリーの展開の中で不自然なのであり、敢て解釈すれば、最初に町で出会って一緒に空中を飛んだデートが素敵だったから一目惚れしちゃったという理由に拠って了解しなければならない。ソフィーは少なくとも見た目は90歳の老婆になっている。90歳の老婆が若い男に愛を告白する絵は異様なのだ。基本的に納得しがたいのである。そこで観客を納得させるためには、深い内面的な契機を入れて必然性を導かなければならない。女が愛を告白し、男が愛の告白を受ける必要で十分な内面的準備を揃えなければならない。

b0018539_11243826.jpgそうでなければ唐突になり不自然になる。観客は最初からこの映画が90歳の老婆と若くて素敵な男との恋愛物語だという情報を知っている。そしてそれが宮崎駿によってどのように描かれるのかを期待して見ている。巨匠で天才の宮崎駿だから、その無理な話を見事に自然に描いて納得させてくれるだろうと期待を持ってドラマの展開を追いかけているのである。これは想像だが、ソフィーの声役を演じた倍賞千恵子も同じ当惑の意識を持っていたのではないだろうか。だからソフィーがハウルに愛を告白するシーンは特に力が籠もっていて、見る者を強く説得するべく必死で演技している様子が窺えた。ハウルの存在は(設定的にも)言わばマネキン人形のようなものであり、描かれたハウルの中にソフィーへの愛を説明するモメントを見出すのは難しい。われわれが納得できる二人の愛のかたちは母親と息子の愛情であり、男と女の愛を納得するのには飛躍が要る。映画はそこに時制の説明装置を仕掛けて観客を説くのだが、その辺が浅薄で積極的に支持する気になれない。

b0018539_11262576.jpg演出装置としての魔法と時制の仕掛が煩わしいと言うか、ドラマの中で説得的に生きてないのである。だから二人の愛の関係も怪しく疑わしく見える。ハッピーエンドのプレゼンテーションにカタルシスがない。思うに、これは中高年のしっかりした女が若いあやふやな男に恋をするという現代の日本の社会状況に対する宮崎駿の安易な癒着ではないのか。そんな感じが私にはする。癒着という言葉で表現したのは、つまり安直な凭(もた)れ掛りという意味で、すなわち、そこにもう少し男と女の愛の真剣さを考えるべきではないかという批判を含んでいる。愛の描き方が曖昧なのであり、ストレートな感動に届かないのだ。ここで私が言っているストレートな愛の感動とか描き方というのは、韓国ドラマ『冬のソナタ』のような純愛の類型を指す。恋をすると誰でも胸がときめいて切なくなる。切ない時間と空間が恋をした相手との間に流れる。ラブストーリーの基本的モメント。誰もが納得できるもの。それが『ハウルの動く城』にはない。ソフィーのハウルへの愛を確信できない。

b0018539_11264448.jpgこの物語では三人の老婆が登場する。老齢の三人の女が一人の若い男を愛してその男の愛を奪い合う。サリマンと荒地の魔女とソフィー。そして最後にこの女の闘いにソフィーが勝利する。そういう話になっている。が、サリマンも荒地の魔女も、どのようにハウルを愛し、ハウルに愛されたのかよくわからない。その愛が軽い遊びのものだったのか、それとも真剣なものだったのか判別できない。年齢差が設定されていて、老婆三人は女として醜く魅力が乏しく、男は若く美麗であるだけに余計に想像力の駆使が難しい。原作への関心は向かないでもないが、宮崎駿でさえ巧く(説得的に)調理できなかった事情を考えると、原作者の独りよがりが予想されて、逆にためらう気分にもなる。確かに時代は中高年の女が若い男と恋をする時代になっている。そして恋と遊びの境界は常に曖昧で不明瞭ではある。しかし、多くの女が求めるのは愛すると同時に愛されることであり、遊びだったと軽く片づけて処理するものではない。二人の愛を描くならば、本当の愛の姿を感動的に説得して欲しかった。
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by thessalonike | 2004-12-21 23:30 | 『ハウルの動く城』 (8)   INDEX  
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