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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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『ハウルの動く城』(6) - ブランドとしての宮崎駿     
『ハウルの動く城』(6) - ブランドとしての宮崎駿     _b0018539_125401.jpg前回、手塚治虫と宮崎駿についてを試みてみた。現在の宮崎駿の地位と境遇は、きっと手塚治虫が生前夢見ていたものを達成した姿と言えるのだろう。アニメ映画の商業的確立と全世界への配給。文化としてのアニメの世界的規模での市民権の獲得。記憶では手塚治虫はアニメ映画(『千夜一夜物語』か『火の鳥』か忘れたが)で事業に大失敗して虫プロを倒産寸前に追い込んだ経緯と蹉跌がある。コミックとテレビの世界では成功して巨匠となり、先駆者としてインダストリーを築き、偉大なカリスマ的存在となったが、渾身の情熱とエネルギーを注いだ映画ビジネスだけは遂に成功させられず、無念を残して60歳の人生を終わった。その手塚治虫の遺業を見事に完成させたのが宮崎駿である。その意味で宮崎駿を手塚治虫の後継者と呼ぶのは誤りではないし、生涯をトータルした業績の面では宮崎駿は手塚治虫を追い抜くだろうし、文化勲章も間違いなく受賞するだろう。今後の海外でのジブリの事業展開とアニメ文化普及の如何ではノーベル文学賞の可能性すらある。



『ハウルの動く城』(6) - ブランドとしての宮崎駿     _b0018539_1261548.jpg言わば信長の手塚治虫と秀吉の宮崎駿。現在63歳の宮崎駿の胸中を想像すれば、きっとジブリのギルドで優秀な若手後継者を育成して、自分がここまで築き上げたアニメ文化の世界をさらに豊かに発展拡大させることを願い、そしてアニメ文化を地球規模で普遍化させ、世界中の子供たちや大人たちの生活の一部にすることを目指しているだろう。宮崎駿の影響を受けた有能なクリエイターが外国から続々と出現する図を思い描いているだろう。金熊賞やオスカーはその理想へ向かうマイルストーンだ。だから、単に事業の論理だけでなく夢の実現の上においても、二年に一度の新作発表のサイクルを止めるわけにはいかない。販路開拓した50ヶ国のビジネスパートナーは、当然ながらクォリティの高いエンタティンメント製品の安定供給をジブリに求めるだろうし、宮崎駿はその期待に応える中で後継者たる人材を育てなければならない。創作も教育も事業も一つなのだ。

『ハウルの動く城』(6) - ブランドとしての宮崎駿     _b0018539_1263314.jpgしかしながら、一口で後継者とか若手人材とか言うけれど、こういったマンガやアニメの世界で偉大な巨匠の後継者が言うほど簡単に育つものだろうか。マンガの世界には独特なギルドがある。小説や絵画などの創作とその点が根本的に違う。個人単独で完結するのではなく、家内制の分業体制で製作作業を行う。映画となればさらに組織が大掛かりになる。巨匠たちは現場で懸命に弟子を育てようとしているはずなのだけれど、果たして虫プロや赤目プロやさいとうプロからどのような後継者が輩出されたのか。ジブリのビジネスモデルとシステムは一見壮麗に完成しているけれども、所詮はそこに傑出した想像力を持った才能がなければ宮崎駿の事業は後継できない。電機や自動車のような工業製品の設計や製造とは訳が違うからだ。チャネルなりプロモーションなりのマーケティングストラクチャーがどれほど完璧で、ファクトリーの製造技術と品質管理が最先端でピカピカのものであっても、技術力と独創性を持ったエンジニアがいなければビジネスをスタートさせることができない。

『ハウルの動く城』(6) - ブランドとしての宮崎駿     _b0018539_12162858.jpg今回の『ハウルの動く城』への評価を見ながら思うのは、作家は作品で新境地を切り拓いて新しい達成を生み、そして業績を上げれば上げるほど、次の作品への市場の期待は大きく膨らんで、同じ作品を続けて出せば成功とは評価されないということだ。ジブリのファンから見れば『ハウルの動く城』は宮崎駿の世界が高度に結晶した最高傑作という評価になる。いろんな小道具や仕掛が動員され凝縮的に構成配置されていて、宮崎作品に親しんだ者には最高の満足と感動を与えられるのである。『ハウルの動く城』の地点から見下ろせば、『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』は、ファンタジーの想像力もアートの表現力も、はるかにスケールダウンするものなのに違いない。要するに宮崎駿くらいの存在になると、これまでの作品の延長線上のものでは市場は満足してくれないということであり、寄せられている期待があまりに大きいということであり、また、大衆の期待を常に作品で凌駕する芸術的天才だと認識されているということなのだろう。

『ハウルの動く城』(6) - ブランドとしての宮崎駿     _b0018539_1271026.jpg一部にアイディアの枯渇を指摘する意地悪な声も上がっている。はて、アイディアって、描きたいものがアイディアだろう。それが頭の中にありすぎて溢れて困っているから天才なのであり、音楽のモーツアルトなのだろう。描きたいものがなくなったら作家はそこで終わりだ。今回の作品は、何となく作家が自分が描きたいものを創作して見せたと言うよりも、描く必要があったので描くものを選んで考えたという趣向が微妙に感じられる。タッチアンドフィールの基調を崩さず、これまでの成功体験から売れるもの、受けるものをピックアップしてコラージュ的に加工した印象を受けてしまう。アイディアで挑戦したのではなく、マーケティングの論理で作っている。ネットで今作を絶賛する者たちが、これまでの宮崎作品を評したのと同じ一般解説用語(例えば自己を回復するとか自分を取り戻すとか)を繰り返すのは、そういう事情があるからではないか。今回の作品についての宮崎駿は作家の名前ではなくてマーケティングのブランドである。事業が創作に先行している。
『ハウルの動く城』(6) - ブランドとしての宮崎駿     _b0018539_12105888.jpg

by thessalonike | 2004-12-03 23:30 | 『ハウルの動く城』 (8)   INDEX  
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