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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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『ハウルの動く城』(8) - 「宮崎駿の世界観」について  
『ハウルの動く城』(8) - 「宮崎駿の世界観」について  _b0018539_11113673.jpgハウル論議の中で気になる問題が一点あったので、この機会に触れておきたい。それは宮崎駿と『ハウルの動く城』を評価する上で、「世界観」というキーワードが頻繁に使用されていることだ。曰く、「宮崎先生の世界観の勝利」とか、「宮崎作品の圧倒的世界観」とか、「宮崎さんの世界観は好きですが」とか..。そういう表現のコメントをよく見かける。気になるのは、世界観の単語を用いて宮崎駿を評価している人たちが、世界観という日本語を正確に理解して使っているのかという問題もあるのだけれど、それ以上に、果たしてこの人たちが言っている「宮崎駿の世界観」とは一体どのようなものを想像しているのかという問題と、また「宮崎駿の世界観」というような言い回しが一体どの辺りから始まって、誰が言い出したのかというオリジナルソースの問題である。世界観という言葉が付けられて作品や作者が評価される例は最近の日本では非常に少ない。逆に二十年前までは日本人はこの言葉を好きでよく使っていた。



『ハウルの動く城』(8) - 「宮崎駿の世界観」について  _b0018539_11114893.jpg特にこの言葉は、若い人間があまり簡単に用いる用語ではないはずで、どちらかと言えば、意味として、日本の若い世代には不得手で不得意な近づき難い言葉であるはずなのだ。普段は滅多に使わない言葉であり、宮崎駿を論ずるときにのみ使うことに衒いを覚えない熟語のはずである。つまりこういうことだ。宮崎駿を「世界観」の言葉を用いて評価する若者たちの頭の中では、世界観という言葉は独立した概念として明瞭に意識されているのではなく、宮崎駿という実体と結合して未分離に格納されていて、世界観という言葉を文章で用いる場合には、宮崎駿の世界観とそのまま書きつけて言葉の意味を納得了解しているのだろう。宮崎駿以外では世界観という言葉を用いたことはないのだ。そして恐らく、世界観という言葉そのものにも若干は躊躇や敬遠はあるものの、他の人間たちも「宮崎駿の世界観」と言い切ってその言葉をコメント等の中で使っているから、自分も安心してその言葉を使えるのである。

『ハウルの動く城』(8) - 「宮崎駿の世界観」について  _b0018539_1112278.jpg少し意地悪な見方だが、私には思想現象として彼らの「世界観」の言葉遣いがそのように見える。彼らにとって「世界観」とは意味が不明な怪しげな言葉なのだが、宮崎駿を評価する場合には、それを積極的に動員しても構わないプラスシンボルなのである。宮崎駿を高く持ち上げて評価する際には「世界観」という言葉を前面に出して修飾すればよいのだ。で、その問題の「世界観」って本当はどういう意味の言葉なのだろうか。世界およびその中で生きている人間に対して、人間のありかたという点からみた統一的な解釈、意義づけ知的なものにとどまらず、情意的な評価が加わり、人生観よりも含むものが大きい。楽天主義・厭世主義・宿命論・宗教的世界観・道徳的世界観などの立場がある」。思うに、恐らく評者たちが言っている「宮崎駿の世界観」というのは、「宮崎駿の世界」で置き換えられる内容なのに違いない。本来は「宮崎駿の世界」としてイメージしている中身を、敢えて「世界観」と難しく表現しているのだ。

『ハウルの動く城』(8) - 「宮崎駿の世界観」について  _b0018539_11151335.jpg単に「宮崎駿の世界」とか「宮崎駿ワールド」と呼べば済むものを「宮崎駿の世界観」と称している。そこに何か思想的に深いものがあるのだというニュアンスとアピールを籠めてこの言葉を試用している。まあ、日本語は正しく使いましょう、世界と世界観は違う意味の言葉ですから区別して使いましょう、世界観という言葉を使うときは辞書で意味を確認して自信を持って文中で表現を試みましょうなどと年寄臭く説教をすればそれで終わりの話なのだが、説教ついでにさらに意地の悪い考察を付け加えておこう。宮崎駿の世界観って一体何なのだという問題だ。と言うより、言葉に敏感な人間ならすぐに気づくことだと思うのだけれど、国語辞書が示す世界観の言葉の意味と宮崎駿の作品の方法ほど齟齬する関係のものはないのではないか。宮崎駿の方法で一貫しているのは、二項対立や勧善懲悪の否定であり、物語の形式への懐疑であり、単一の意義づけの拒絶であり、公式的意味の束縛からの離脱である。

『ハウルの動く城』(8) - 「宮崎駿の世界観」について  _b0018539_11122632.jpg宮崎駿ほど「統一的な解釈、意義づけ」から創作の精神が遠く離れている存在はないように思われるが、その宮崎駿を「世界観」の言葉で熟せしめて賞賛表現するのは、何とも滑稽な矛盾のような感じがする。それと、本来なら若い世代にとって不可触的な言葉であるはずの世界観という言葉が、宮崎駿に対しては衒いなくプラスの意味で使われるということは、若い世代の日本人が宮崎駿を偉大な哲学者だと認め、その哲学を肯定的に受け止めていることを意味する。言葉の意味は時代によってどんどん変わる。世界観の定義も、現在の国語辞書の示す堅い意味を解体脱構築して、もっとふんわりボヤーッとしたアニメ映像的なマイルドな意味になるだろうし、「世界観」と「世界」の境界もなくなってしまうのかも知れない。あるいは世界観の言葉に二つ目の定義が成立して、狭義の意味で宮崎アニメが日本のオーディエンスをコンビンスするメッセージの総体のことを「世界観」と一般的に呼ぶようになるのかも知れない。

『ハウルの動く城』(8) - 「宮崎駿の世界観」について  _b0018539_11134917.jpg

by thessalonike | 2004-12-01 23:30 | 『ハウルの動く城』 (8)   INDEX  
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