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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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韓国映画『ブラザーフッド』 (2) - イデオロギーの戦争
韓国映画『ブラザーフッド』 (2) - イデオロギーの戦争_b0018539_22272244.jpg映画『ブラザーフッド』の批評を思い立ちながら、なかなか筆が進まなかったのには理由があって、一つにはこの映画があまり日本国内で大きな話題や評判にならなかったという事情がある。これだけ「韓流ブーム」が絶頂を極めているというのに、歴代韓国映画の最高傑作とも言えるこの作品が、なぜ日本社会で関心の中心に到達しないのか。本来なら得てよいはずの芸術的評価や商業的成功を獲得できないのか。その辺りのところを考え始めると思考が躓き挫けかけて、つまりネットで作品について真剣に正面から批評を試みても、それが他の共感や支持をコールできる自信や予想を持ち得ず、何やら滑稽な一人相撲の徒労に終わって惨めな気分になる予感や不安があり、意欲を一歩前に押し進めることができなかった。



韓国映画『ブラザーフッド』 (2) - イデオロギーの戦争_b0018539_22274092.jpgこの映画は戦争を描いた作品である。戦争が映画のテーマだ。けれども戦争一般を描いた映画ではなく、戦争の悲惨さ一般が観衆にメッセージされた作品ではない。すなわちこれは朝鮮戦争を描いた作品なのだ。朝鮮戦争という現代史がテーマであり、朝鮮戦争とは何だったのかが監督が見せているものである。だからこの作品は「朝鮮戦争をモチーフにした戦争映画」ではない。朝鮮戦争は単なる題材ではなく主題そのものなのだ。歴史の再現と証明こそが監督の企図であり、だからまさに本格的なドキュメンタリーを創作の方法で織り上げた映画作品だと言える。観客はこの映画を見て、単に戦争の悲惨さ一般を感じるのではなく、朝鮮戦争という歴史的事実が了解できなければ、この映画を正しく理解したことにはならない。

韓国映画『ブラザーフッド』 (2) - イデオロギーの戦争_b0018539_22281935.jpg同じ民族同士が大量に苛烈に残酷に殺し合う戦争としての朝鮮戦争。ナチスドイツがユダヤ人を殺戮するのとは訳が違う。民族とか人種とかの異なる者同士の戦争ではなく、戦争している彼我は北と南で、軍服姿は異なるけれども、同じ言葉の同じ民族なのだ。異なっているのはイデオロギーだけである。南の兵士は北の兵士を「アカ野郎」と言って殺す。映画の中で「アカ野郎」という言葉が何度も何度も頻回に出て来る。戦場で銃剣で格闘する時、南は北を「アカ野郎」と罵り、北は南を「韓国野郎」と蔑む。「アカ野郎」と「韓国野郎」、それだけが彼我を分けているのだ。それだけの言葉にしかならない憎悪で、あの凄絶な殺し合いをしているのだ。

韓国映画『ブラザーフッド』 (2) - イデオロギーの戦争_b0018539_22283120.jpg少し引いて考え直せば、この光景は本当に滑稽で馬鹿らしいことに違いない。監督のメッセージがきっとここにある。イデオロギーの戦争のために、イデオロギーの世界戦争の代理を自ら担って、韓国朝鮮人は三百万から四百万の犠牲者を世界史に提供してしまった。だから監督はイデオロギーの戦争の実体を抉出するのに容赦しない。この二時間の大作の中で登場するたった一人の女を、ヒロイン(ヨンシン)を、監督は惜しげもなくあのソウルの凄惨な赤狩り事件を描くために殺すのだ。このヒロインを失えば、映画後半にはもう女の登場はなく、男女が希望を取り戻す場面はなくなる。主演する兄弟だけでなく、観客もまた希望を失わされる。

韓国映画『ブラザーフッド』 (2) - イデオロギーの戦争_b0018539_2229681.jpg絶望させられる。そこまで犠牲にすることで、カン・ジェギュ監督は「イデオロギーの戦争」に迫っているのだ。銃弾を受けたヨンシン(イ・ウンジュ)が、「私はまだ死ねない、お母さんや妹たちがいるから、私はまだ死ねない」と切なく言い、無念を残して非業に死ぬ。胸が詰まる。「私はあなたに恥じることは何もしていない」。ヨンシンの悲劇の伏線は、映画冒頭の例の保導連盟から受けた米の配給袋の場面からあったことになるのだが、あのときヨンシンはジンテに「名簿に名前を書くだけで配給がもらえるの」と軽く説明していた。が、反共青年団がヨンシン銃殺に臨んで告発したとおり、ヨンシンは朝鮮労働党と関係のある大衆団体の集会に何度か参加していて、必ずしも食うだけのために名簿に名前を書いただけではなかったのだろう。

韓国映画『ブラザーフッド』 (2) - イデオロギーの戦争_b0018539_22291725.jpg両親を失い貧しい境遇の中で幼い三人の兄弟を抱えて生き抜かなければならなかったヨンシン。彼女が社会主義の思想に触れ、その理想に共鳴を覚えたのは、当時の時代状況を考えれば当然すぎる話だ。なぜ韓国朝鮮が内部でイデオロギーの戦争を演じなければならなかったのか。自由主義と共産主義に分かれて殺戮し合わなければならなかったのか。ほとんど単に侵略者側でしかなく加害者側でしかない共産主義のサイドの論理に対して、監督が唯一内在的に接近して観客に示していた部分が、悲痛な死を遂げるヨンシンの存在と配置だった。監督はよく描いていたと思う。共産主義というものを説明するのは難しい。が、その意味が内在的説得的に描かれなければ、そうでなければ現代史を説明したことにはならないのだ。

韓国映画『ブラザーフッド』 (2) - イデオロギーの戦争_b0018539_22292879.jpg

by thessalonike | 2004-09-05 23:30 | 『ブラザーフッド』 (6)   INDEX  
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