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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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日本映画『スパイ・ゾルゲ』 - 理論的要素を挿入する必要
日本映画『スパイ・ゾルゲ』  - 理論的要素を挿入する必要_b0018539_2245363.jpg8月下旬にNHKの衛星放送でテレビ放映されていた。映画館では三時間の大作もさほど退屈を感じないが、テレビとなると集中力を失いがちになる。テーマである現代史の問題と戦前日本の情景、篠田正浩監督が見せようとしたもの、伝えようとしたメッセージを全て映像に詰め込むとあの時間の長さになる。監督の頭の中にあった全体を映像化すれば五時間分くらいのボリュームになったのではないか。三時間でも切り詰められているのだ。篠田正浩監督の最終作に籠めた意図が幅広くて、外国人を主役として使った本格的な日本映画、すなわち国際的作品という野心もあり、また日本人のために昭和史教育の素材として半永久的に利用される歴史教育映画としての狙いもある。あれだけ大仕掛に戦前の東京の街の風景が映像化される機会は当分ないだろう。

日本映画『スパイ・ゾルゲ』  - 理論的要素を挿入する必要_b0018539_21413530.jpgゾルゲの多面的でドラマティックな人間像や活躍した歴史的舞台を映画にするだけで、本来なら三時間以上必要になるかも知れない。だが、篠田監督の情熱はそれに加えて昭和史、戦前政治史を語ることを重要な主題として措定していて、例えば二・二六事件などに相当に踏み込んで時間が割かれている。そして戦前日本を映像で説得することで、観客にゾルゲたち国際共産主義者の活動の内在的理解が導かれるようになっている。東北の村の役場の入口に貼られている「娘の身売相談受けます」の貼り紙や、廃業して荒れ果てた田舎の製糸工場の場面が、世界大恐慌の直撃を受けて経済的に破綻崩壊した戦前日本社会の現実を描き、「民衆に公正を約束するのは共産主義しかない」と確信して共産党員になったゾルゲの内面を弁証するのである。

日本映画『スパイ・ゾルゲ』  - 理論的要素を挿入する必要_b0018539_21412197.jpgだが欲を言えば、それは単にプレーンな映像だけでなく、ゾルゲと尾崎の間の会話の中で、つまり「三二年テーゼ」をめぐる戦略理論や講座派経済学の「半封建的日本資本主義」の規定を議論する場面を挿入して、学問的な専門用語を使って説明して欲しかったところである。映画の中でゾルゲが「俺たちは単なるスパイじゃない」「情報提供だけをしてるんじゃない」と言うシーンがある。確かに主観的にはそのとおりなのだ。国際共産主義の革命運動を前衛としてやっているのである。単なる諜報員ではなく革命家。映画ではその部分のカバーが不十分であり、結果としてゾルゲが単なるソ連の秘密工作員の軽い存在になってしまっていた。理論家としてのゾルゲの実像を本格的に出さないと、スターリンの粛清劇に直面して懊悩するゾルゲの葛藤も伝わって来ない。

日本映画『スパイ・ゾルゲ』  - 理論的要素を挿入する必要_b0018539_21421437.jpg篠田正浩監督が、難解な理論的問題の導入を敢えて映画から省略したと考えるべきだろうし、あるいは本木雅弘の英語能力の限界という条件もあったのかも知れない。しかしながら革命家としてのゾルゲ、理論家としての尾崎秀美という性格の演出がぶ厚く説得的に入らないと、この映画は基本的に失敗する。子供のオモチャのように幼稚な模型作品になってしまうのだ。当時、共産主義者として生きるということは、単にモスクワの指令下で非合法の地下活動をするということではなかった。それは何よりインテリとして理論家として生きることであり、マルクスの『資本論』、特にその再生産表式論を自国の経済に適用してみせることであり、其々の国の資本主義の構造を析出し、その発展と没落の必然性を検証して、有効な革命理論を前衛党に提供することであった。

日本映画『スパイ・ゾルゲ』  - 理論的要素を挿入する必要_b0018539_21415919.jpgレーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』、ローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』。少なくとも1920年代から1930年代前半まで、コミュニズムの世界にはそうした理論的前提(建前)があったはずであり、前衛党の「鉄の規律」も「一枚岩」も、理論と実践の緊張があって、革命家個々が提出する理論の正否をめぐる論争が存在した。当時のコミュニストたちの信念なり態度なりを理解的説得的に描き出すためには、単に社会の窮乏化や大衆の貧困状況だけを浮かび上がらせても成功しない。その思想に人々を引き寄せる理論の存在があり、当時においては社会を科学したり変革したりするテクノロジーとして魔術的な威力を誇っていたという事実が正しく紹介されなければ、当時のコミュニズムの思想的影響力の実像を描出したことにはならないだろう。

日本映画『スパイ・ゾルゲ』  - 理論的要素を挿入する必要_b0018539_21414813.jpg実際のところ、ゾルゲが在日ドイツ人高官の間で「ドクター」と呼ばれ、日本研究の権威として尊敬されていたのは、彼に社会科学の知識と素養があり、中国農業研究の実績があり、その方法を日本経済や日本軍隊の分析に応用できていたからである。その「社会科学」の中身とはまさにマルクス主義理論以外の何ものでもない。マルクス主義と社会科学の境界がない時代であり、あらゆる分野の社会科学の所産をマルクス主義が独占していた時代であった。そういう認識の前提に立たなければ、ゾルゲたちコミュニストの人生も理解できないし、第二次大戦前後の時代というものを理解することはできないに違いない。社会的な義憤や心情的純粋や正義感だけでコミュニズムに共鳴したのではない。マルクス主義という圧倒的な知識的実体が存在していたのである。

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by thessalonike | 2004-09-07 21:31   INDEX  
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