一読した感想を正直に言えば、事前の期待が大きすぎたこともあるが、肩透かしを食らった印象が強い。ストーリーの内容も、文章の深みも、『海辺のカフカ』の作品水準と全く違う。『海辺のカフカ』の感動を期待して読む読者は、懼くその期待を裏切られる結果になるだろう。昨日、神田の東京堂一階売り場で本を買ったとき、通常15冊ほど積み置かれるはずの平積み一列で売られていた『アフターダーク』は、平積みの山がすっぽり窪んで、残りわずか二冊しかなく、谷間に沈んだ本の表紙を見つけたとき、前の男が一冊を取って行ったために、最後の一冊を手に取ってレジに並ぶしかなかった。その後で在庫から店頭に補充がなされたのかどうか。
昨日一日でいったい何冊の『アフターダーク』が売れたことか。そして、そのせっかちな購入者の殆んどが、昨夜中、あるいは今朝の通勤電車の時間を加えて、全てを読み上げてしまったに違いない。しかし、それにしてもあまりに物足りなさが残る。村上春樹自身は、果たしてこの作品の出来に満足を覚えているのだろうか。文体が少し変わっていると語っているようだが、そしてそれは情景描写の手法などで多少確認できるとは思うが、何か「習作」的な意味があるのだろうか。率直なところよく分からない。講談社との間で事業的な契約か何かがあって、その履行のために、無理に一冊書いて出版したのではないか。そんな意地悪な想像さえ働いてしまった。
『海辺のカフカ』は夢中になって読んだが、読者の私だけでなく、何より作者の村上春樹自身が夢中になって書き込んでいる印象を強く感じた。楽しく、しかも一頁一頁に無駄がなく、作為と濃さと迫力があった。絶品だった。村上春樹本人の作品への満足感と達成感を感じ取ることができたような記憶がある。現在の村上春樹は、世界中の小説家の中で最もノーベル文学賞に近い一人と言われている。題名のせいもあったのだろうが、オーストリアでは書店売上ランクで第一位になったという報道もあった。作品数を多くする必要はなく、むしろ次回作として期待される『海辺のカフカ』の続編の取材や準備に多く時間を割いた方がいいように思われるのだが。
不満に感じた根拠をストーリーの面から言い始めるなら、物語は姉の浅井エリが目を覚ませたところでただ終わる。これはあまりに素っ気ないラストではないか。読者は終盤まで読み進むと、残りの紙幅の判断で、もうその空っぽな結末が見えてしまう。見えてしまったところでがっくり失望してしまう。何も無いのだ。意図的なのかどうか、起承転結のドラマ性が物語から剥奪されていて、中途半端な尻切れトンボの印象を否めない。それから白川。登場人物として作品中重要なキャラクターなのだが、この男の結末(始末)が示されない。あるだろうと読者が期待するドラマの展開が落とされている。村上春樹が『アフターダーク』の続編を用意しているとは思えない。
この物語はこの中途半端さのまま永久に一話完結であるに違いないのだ。とすれば、読者はこの作品を読んで何を感じ、何を楽しめばよいのだ。この物語は、真冬の歌舞伎町と思われる繁華街が舞台となっているが、その夜12時から朝の7時までで話が終わる。深夜から早朝にかけての半日で話が済む。登場人物も少なく(五人ほど)、物語に広がりと奥行きがない。時間も短く空間も狭い。空間の移動もなく、場面の展開も全くと言っていいほどない。コンパクトな作りにしている。最初から意図的に小作の設計の小説だ。村上春樹の現在のイマジネーションと創作技術を考えれば、作家として充実の境地にある現在の彼のスケールとパフォーマンスを考えれば、この作品は「禁欲的」としか言いようがない。