本と映画と政治の批評
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村上春樹『アフターダーク』 (6) - 『ある愛の詩』の謎
b0018539_236327.jpg小説『アフターダーク』の中で一ヶ所だけ不審に感じた部分があったので、この機会に挙げておきたい。高橋とマリの会話の中で、米国映画『ある愛の詩』が紹介される件(くだり)である。



「『ある愛の詩』って見たことある? 昔の映画」と高橋は尋ねる。
 マリは首を振る。
 高橋は言う。「このあいだテレビでやってた。なかなか面白い映画だよ。ライアン・オニールは資産家の旧家の一人息子なんだけど、大学生の身でイタリア系の貧乏な家の娘と結婚して、それでばっさりと勘当されちゃうんだ。学費も打ち切られる。でも二人で貧乏暮らしをしながらこつこつ勉強し、ハーヴァード・ロースクールを優秀な成績で出て弁護士になる」
  (中略)
「それでさ、ライアン・オニールが苦労の末に弁護士になって、どんな仕事をしているかっていうと、そういうことは観客には情報としてはほとんど知らされないんだ。僕らにわかるのは、彼が一流の法律事務所に就職して、人もうらやむ高給取りになったっていうことぐらいだ。マンハッタンの一等地でドアマンつきの高層アパートマメントに住んで、ワスプのためのスポーツクラブに入って、暇があればヤッピー仲間とこんこんスカッシュをするんだよ。それだけ。」
 高橋はグラスの水を飲む。
「で、そのあとはどうなるの?」とマリが尋ねる。
 高橋は少し上を見あげて筋を思い出す。「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利。昔は大変だったけど、今はサイコー、みたいな感じでぴかぴかのジャガーに乗って、スカッシュして、冬にはときどき雪投げして。一方、勘当した父親の方は糖尿病と肝硬変とメニエール病に苦しみながら、孤独のうちに死んじゃうんだ。」

(P.143-144)

b0018539_2364750.jpgこれは実際とずいぶん話が違う。村上春樹による創作上の意図的な演出だと思われるが、小説の中で映画『ある愛の詩』のストーリーが改竄されている。この映画は1971年の米国映画だが、当時は世界中で大ヒットしており、実際に映画を見て記憶に残っている人間も多いだろう。インターネットの中にも少なからず情報がある。サイトを幾つか点検確認すれば分かるが、この映画は決してハッピーエンドの話ではない。むしろ悲劇の物語だ。ライアンオニールが演ずる主人公オニールと結ばれる貧しいイタリア系移民の娘ジェニーの役はアリーマッグロウだったが、このアリーマッグロウが病気で死ぬのである。二人ともハーバードの学生だった筈だが、勘当されて仕送りが途絶えたライアンオニールの学業を助けるために、アリーマッグロウは大学を辞めて働く。ライアンオニールが弁護士の卵になって二人が幸せになろうとする矢先の悲劇だった。

b0018539_236562.jpg村上春樹はなぜ『ある愛の詩』をこのような歪曲した形で小説の中に登場させたのだろう。米国文学が専門であり、また村上春樹の年齢と年代の点を考え併せれば、作者が誤って記憶違いのまま『ある愛の詩』を紹介したとは考えられない。高橋に敢えて勘違いさせているか、あるいは高橋に意図的に嘘を言わせているかのどちらかである。表面的な読み方かも知れないが、文章を追って感じ取るところは、村上春樹が『ある愛の詩』に対してあまり好感を持っていないのではないか、或いはこの映画に対して何か不愉快な思い出でもあったのだろうかという疑念である。『アフターダーク』のストーリーから考えても、ここで特に高橋が悪意で『ある愛の詩』の内容を不当に捏造し、マリに説明してやらなければならない必然性はない。この話は唐突に出てくる。

b0018539_237576.jpg敢えて関連性を推理すれば、高橋が食うために法曹界へ入るべく司法試験の準備のために好きな音楽をやめなければならないという事情だけだろうか。自分は貧乏で司法試験の受験に失敗すればそれまでだが、ライアンオニールは法律家になれなくても家の財産で悠々自適の生活を送れる。その彼我の差に対する僻みなり嫉妬みたいな感情が、『ある愛の詩』の話を知らないマリに向かって嘘をつく(話を捏造して伝える)という行動を起こさせたという理解。せいぜい解釈としてはそこまでだ。が、それにしては『ある愛の詩』は相当に捻じ曲げられて素材にされている。小説の最後までこの間違いについて話の中で修正や弁解が入ることはなく、その意味では原作者(エリックシーガル)が読めば決して愉快な気分にはならないだろう。何かあざとい印象が残る。

b0018539_2371425.jpg村上春樹は現代日本を代表する作家であり、作品の文学的な質の面でも売り捌く量の面でも、村上春樹を超える日本の作家はいない。また同時に村上春樹は世界的にポピュラーな作家であり、ノーベル文学賞候補のリスト上位に名を連ねていることは周知の事実だ。でまあ、要らぬお節介かも知れないが、作品は当然英訳されて米国の市場にも流通するのだろうから、気を回してその辺の評判を気にしたりするのである。『ある愛の詩』自体は特にケチがつく文芸作でもないと思うし、また71年当時の米国の精神的な雰囲気に思いを馳せても、ベトナム反戦運動もあり、印象として決して今のように醜悪ではなかった。現在の米国人のように、無知の上に胡坐をかいた尊大で傲慢で野蛮なイメージではなく、むしろ『ある愛の詩』が似合うナイーブでピュアな国だった。
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by thessalonike | 2004-09-11 23:30 | 『アフターダーク』 (8)   INDEX  
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