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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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現代版「慶安の御触書」としてのクールビズ - 格差固定の逆作用
現代版「慶安の御触書」としてのクールビズ - 格差固定の逆作用_b0018539_11554050.jpg梅雨明けの日程を三週間以上前にして、早くも日本列島に真夏の季節が襲来した。今年も暑い。政府のクールビズキャンペーンが始まってから一ヶ月が経ったが、電車の乗客や街を歩くサラリーマンを見ると、政府が囃し立てたようには普及は進捗していないように見える。外回りで事務所と得意先を移動している男たちは、皆、シャツの襟にネクタイを締め、そして上着を身に着けて、片手の携帯電話を玩具のように弄くっている。その姿は例年と変わることなく、クールビズのプロモーションなど何もなかったかのようである。最近、今回のクールビズは現代版「慶安御触書」ではないかと思えて仕方がない。慶安御触書というのは、中学校や高校の歴史教科書にも出てくるから誰でも知っていると思うが、徳川幕府が1649年(慶安2年)に発令した当時の農民の生活を統制するための法令であり、生活の細部にわたって禁止事項や奨励事項を小うるさく書き示している。酒・茶・煙草は飲むなとか、早起きして草を刈れとか、夜は縄をなえとか、米を食わずに雑穀を食えとか、遊び好きな嫁は離縁しろとか、年貢はきちんと納めろとかである。



現代版「慶安の御触書」としてのクールビズ - 格差固定の逆作用_b0018539_11555928.jpgその中に農民の衣服を統制した項目があり、「一、百姓は衣類の儀、布(麻)・木綿より外は、帯、衣裏にも間敷事」とある。農民は麻と木綿以外の衣料素材の着用を禁止された。クールビズが慶安御触書ではないかと考える意味は二つあって、一つは政府(お上)が庶民(下々)の着るものにまで口出しをして、こうせよああせよと指導勧告している日本社会の問題であり、もう一つは今回の政府による庶民への衣服指導が嘗ての徳川幕府の農民統制と同じように階層の固定化という支配の問題に関るクリティカルな政治学的問題を含むのではないかと思われることである。二つ目の問題がより重要ではあるが、一つ目の問題も無視できない。外国人の目、特に欧米諸国の人々から見れば、この日本人のあり方は異様に見えるだろうし、彼らが持っている伝統的な日本人像 (市民社会的人格が未成熟で上の権力の言うことを何でも素直にハイハイ聞く) に確信を与える社会現象として映ったことだろう。まるで日本の社会全体が幼稚園で、日本人は幼稚園児で、小泉首相は園長先生で、小池環境相は生活指導担当のおばさん先生である。

現代版「慶安の御触書」としてのクールビズ - 格差固定の逆作用_b0018539_11561376.jpg省エネは結構だが、何も市民の仕事着の領域にまで政府が口出して世話を焼く必要はないのである。夏の仕事着を軽快なものに合理化するのに政府の指導(半強制)を必要条件としていること自体がおかしいのであり、民間企業が事務所内の冷房温度を28度に設定して、それ以下に下げないようにすればそれでよい話なのだ。企業の省エネは経費節減にも繋がり、大都市のヒートアイランド化の抑制や地球温暖化の防止にも貢献する。会社の中で従業員に半袖姿で業務をさせればそれでよく、経営者が判断して決めてやればよいことだ。経営者がそれを遂行するのになぜ国家の指導が必要なのだろう。せいぜい日経団連とか日商のレベルの問題である。徳川幕府が慶安御触書で年貢の安定収入の維持を図ったように、今回のクールビズも竹中経済財政担当相の景気刺激(有効需要)の姑息な思惑がある。メディアは国民を幼稚園児のように扱う政府のクールビズに対して、それに便乗するのではなく批判的な視線を送るべきだ。

現代版「慶安の御触書」としてのクールビズ - 格差固定の逆作用_b0018539_11563046.jpgそういう市民社会論的な視角からの一般批判とは別に、今回のクールビズにはもっと重要で恐ろしい問題が胚胎しているように私には思われる。一言で言えば、この問題は階級格差の固定化に直結する本質的な危険性が内在する。つまり、クールビズという社会的大義が確立することで、そこに参加できる者と参加できない者の両極分解が発生して、クールビズから疎外される階層が確実に出現するのではないかという予想である。クールビズは単なる服装のコードではなく、権力の問題と絡んで一人一人に迫ってくるはずだ。クールビズは権利の問題として意識される。小泉首相がシャツ姿で官邸を歩いている映像をテレビで見ていると気づくが、首相の周囲で警護をしたり取材をしている人間はネクタイとスーツを着用している。クールビズの格好をしているのは政治家と内閣府の高級官僚だけだ。TBSの『ニュース23』でも筑紫哲也はかりゆし開襟シャツだが、若い補佐役の佐古忠彦はネクタイとスーツである。先日は最高裁判所長官がクールビズにした奇妙なニュースが報道されていた。偉い人ほどクールビズにできるのだ。

現代版「慶安の御触書」としてのクールビズ - 格差固定の逆作用_b0018539_11591850.jpg模範を垂れているようで、実は彼らは下の者に対して権力を誇示しているのではないか。クールビズが自由にできる者がクールビズができない者に対して身分の格差を証明しているのである。クールビズという社会的原則と前提があるから、むしろ却ってクールビズがやりにくくなる。社会の権力関係で下の側にいる者にはそういう逆強制が働いて窮屈な立場に置かれるに違いない。選別され競争を強いられる側の者にとってはクールビズに便乗する態度は権力者の機嫌を損なう瑕疵に繋がる。クールビズを無視して暑苦しい格好で権力者の前に立つことが忠誠心の表明になり歓心を買う場合が多い。現在の日本は不況リストラ社会である。大企業に対する下請中小、上司に対する部下。権力関係のあるところにクールビズが微妙に作用し、階級と身分の隔絶と固定に拍車をかける。あなたの周囲を見回してご覧なさい。自由にクールビズができるのは、永田町の政治家、霞ヶ関の官僚、マスコミのエラい人、県庁や市役所の職員、大手企業と外資系企業の社員、そういう人たちばかりではありませんか。そこから外れた人はクールビズしてますか。

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by thessalonike | 2005-06-28 23:28 | プロフィール ・ その他   INDEX  
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