『ダ・ヴィンチ・コード』の世界の思想史的背景についてもう少し詳しく掘り下げたいという衝動にかられて、部屋にある本棚を掻き回していたら面白い本を見つけることができた。今から二十年も昔に買った山川出版社の『民族の世界史(8)ヨーロッパの原型』、この本の中の谷泰の
『キリスト教とヨーロッパ精神-とりわけ女性的性をめぐって』と題された論文が面白い。主題と基調がほとんど今回の『ダ・ヴィンチ・コード』と同じであり、読みながら、まるでシャトー・ヴィレットの邸宅でティービングの饒舌な聖杯講義を聴いているような感覚になる。作者のダン・ブラウンが小説執筆に際して基調と薀蓄の元ネタとして活用した主な研究書は下のとおりで、これらは下巻の冒頭にテイービングの口を通じて紹介されている。
① 『レンヌ・ル・シャトーの謎 - イエスの血脈と聖杯伝説』
② 『マグダラとヨハネのミステリー - 二つの顔を持ったイエス』
③ 『石膏の壷を持った女 - マグダラのマリアと聖杯』
④ 『福音書における女神 - 利用された聖なる女性』
このうち、①と②は和訳されて日本の出版社から出されていて、①は柏書房から4800円、②は三交社から2000円の定価で売られている。ティービングが講義の中でも決定版だと断言し、また巻末の解説で荒俣宏が触れている①を読んでみたいが、この価格には足が竦む。鬱々として本棚の本を掻き分けていたら、上の一冊が見つかった。二十年前。当時は歴史学研究に大きな方法的転換の波が襲った後で、簡単に言えばマルクス的な発展段階的方法や西欧市民革命中心の認識体系が崩れて、民族史と社会史が主流になっていた。その所産が装いも新たに続々と刊行されている時期で、講談社の『
ビジュアル版世界の歴史』シリーズの大ヒットと並んで、この山川出版社の『
民族の世界史』シリーズも野心的な好企画として市場の読者に歓迎された。
『ヨーロッパ文明の原型』の執筆者には、増田四郎、樺山紘一、井上幸治などの重鎮碩学が豪華絢爛に顔を並べているのだが、その中で異彩を放っているのが、第4章を担当した谷泰の上の論文で、いわゆる従来の(表面をなでる)歴史学の概論ではなく、内容の濃い(問題史としての)思想史であり、切り口の新鮮さが感じられて、二十年前に手に取ってページを捲ったとき特別な印象を受けた。書いている中身は当時はあまりよく伝わらなかったが、二十年の時間を経て、『ダ・ヴィンチ・コード』の時代になり、まさに先駆的で画期的な研究であり、西洋思想史における最先端の問題意識であった事実が理解できる。死海文書発見の後、欧米ではキリスト教の問い直しと人間イエスの再発見の作業が着実に進行していた。興味深い部分をピックアップしよう。
ところでこのようなキリスト教正統派成立期に、ひとしくイエスについて語ったある文書のうちに、次のようなものがあるということを知るとき、われわれはひとつの驚きを禁じえない。
シモン・ペテロが彼ら(イエスの弟子たち)にいった。「マリハム(マグダラのマリア)は私どものところから去った方がよい。女は命に値しないのだから」。イエスがいった。「見よ、私は彼女を連れてゆく。私が彼女を男性にするために。彼女もまたお前たち男性と同じ霊になるために。なぜなら、どの女も、自分を男性にするならば、天国に入るのだから」(語録番号114)
もちろんこれは、聖書の正典のなかに含まれているものではなく、いわゆる聖典の外典、非正統なものとして除外されている『トマスによる福音書』のイエスの語録の一文である。この福音書は、三世紀の教父たち(中略)によってその存在が語られつつも、その具体的内容が、二十世紀中葉まで明らかにならなかったのだが、エジプトのナグ・ハマディで発見されたいわゆるコプト語のグノーシス文書のなかに、この『トマスによる福音書』も含まれていたために、陽の目をみることになったものである。(中略)
ところで同じくナグ・ハマディ文書のなかには、他の外典福音書といえる『ピリポによる福音書』というものがある。(中略)しかも『ピリポによる福音書』のイエスの言行について語った他の部分には、およそ正典の福音書では想像できない、イエスの行状が語られている。
三人(の婦人)がいつも主(イエス)とともに歩いていた。彼の母マリアと彼女の姉妹と人びとが彼の伴侶と呼ぶマグダラ(のマリア)である。なぜなら(マグダラの)マリアは、彼の姉妹で彼の母で彼の伴侶だからである。(福音32)
また他につぎのような言文もある。
「そして(救い主の)伴侶はマグダラのマリアである。主は彼女をどの弟子たちより愛した。他の弟子たちが彼女のところに来て、彼女を非難した。彼らは彼にいった。「なぜあなたはわたしたちすべてよりも彼女を愛するのですか」(中略)
二つの引用文で共通なこととして、マグダラのマリアが、イエスの伴侶(コイノーノス)として規定されている。そしてイエスは彼女を、他の弟子たちよりもよりよく愛した、というのである。彼は彼女の口にしばしば接吻した。弟子たちがそれに対し不満をもってなぜ自分らよりも愛するのか、といっても、自分は彼女をより愛するのだからと答えた、という。(中略)弟子がマグダラのマリアを排除すべきというのに対し、イエスは「私は彼女を連れてゆく」といっていた。(中略)男性としての弟子たちよりも、女性であるマグダラのマリアを伴侶(コイノーノス)として連れ歩き、彼女にしばしば接吻したイエス像が浮かび上がってくる。
(山川出版社 『民族の世界史 (8) ヨーロッパ文明の原型』 P.279-286)
この『ピリポによる福音書』の文言は、『ダ・ヴィンチ・コード』の中でも、下巻のP.16でティーピングによって紹介されている。解説の中身は上の谷泰論文と全く同一と言ってよい。