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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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『ダ・ヴィンチ・コード』 (5) - イエスの復権と男女平等主義
『ダ・ヴィンチ・コード』 (5) - イエスの復権と男女平等主義 _b0018539_16575031.jpgキリスト教正統派の確立期に並行して成立していたと考えられる『トマスによる福音書』や『ピリポによる福音書』の文言の背景を知ったいま、われわれは、これら女性原理を抑えた正統派の見解と並行して、グノーシス主義的思想に依拠したまったく別個のキリスト論が存在していたこと、そしてそこには女性原理の賞揚、そしてイエスとマグダラのマリアに代表される女性的存在との交わりないし合一による救済論が展開されていたことを認めなければならない。これらの主張は、正統派キリスト教にとってはたんに排除されるべきものにとどまらず、否定すべき最大の異端とみなされるべきだったことはその主張の内容をみるとき、容易に理解できる。聖婚的モチーフ、そして女性原理の賞揚はつねに旧約的伝統から排除されてきたものである。ただこれまでみてきた正典の福音書とグノーシス主義的色彩をもった外典のキリスト論を、旧約的路線に照らして見直すとき、正典福音書が、旧約的路線にくらべて、より本来の伝統的立場からそれて、ある種の女性原理への許容ないし譲歩を示していることも事実である。

(山川出版社 『ヨーロッパ文明の原型』 第4章 P.288)




これが谷泰の結論である。ブラウンがティービングに語らせる聖杯議論に比べて、かなり抑制的な印象を読者は受けるだろう。これが二十年の歳月というものであり、また谷泰論文と『ダ・ヴィンチ・コード』の間には、聖杯伝説研究の決定版である『レンヌ・ル・シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯伝説』他の存在がある。ティービングが説き語る隠蔽の歴史は実にクリアである。

「福音書に記されたこの時点で、イエスは自分がまもなく捕らえられ、処刑されると察していた。だから、死後にどう教会を運営していくべきかをマグダラのマリアに伝えている。そのため、ペテロは女性の下の地位に甘んじると思って、不満をあらわにしたわけだ。女性差別の傾向があったのかもしれない」(中略)「手の加わっていないこの種の福音書によれば、キリストが教会を設立するよう指示した相手はペテロではない。マグダラのマリアだ」(中略)「イエスは男女同権論者の草分けだ。教会の未来をマグダラのマリアの手に委ねるつもりだった」 (中略)

「初期の教会の男たちにとって、マグダラのマリアは破滅をもたらしかねない脅威だった。イエスが教会の設立を託した女性であると同時に、教会が神と規定する存在が人間の子孫を残した動かぬ証拠でもあるからだ。教会はマグダラのマリアの力から身を守るために、娼婦のイメージを定着させて、キリストとの結婚を示す証拠を隠滅し、それによって、キリストは血筋を残した預言者にすぎないという主張をすべて封じ込めた」 (中略)

「こうした隠蔽をおこなう強力な動機が教会にあったことはわかるだろう。血脈のことが世に知れ渡ったら、教会はけっして存続できなかった。イエスに子がいたとなれば、神たるキリストという根本概念が覆され、教会こそが神に近づき天国に行く唯一の手段だという主張も崩れ去る」(中略)「イエスの磔刑時、マグダラのマリアは妊娠していたという。まだ生まれぬキリストの子の安全のために、パレスチナを離れるしかなかった」

(『ダ・ヴィンチ・コード』 下巻 P.19-30)

『ダ・ヴィンチ・コード』 (5) - イエスの復権と男女平等主義 _b0018539_1818331.jpg谷泰は、旧約聖書世界の厳格な家父長制原理に対して、新約聖書の思想にはまだしも女性原理の萌芽が確認できる点を指摘しているが、『レンヌ・ル・シャトーの謎』を筆頭とする最近の聖杯伝説研究の成果は、この問題についてヨリ具体的に歴史を解明して、われわれに示しているように見える。すなわち、新約の女性原理の端緒なるものは、原始キリスト教がそもそも持っていたものではなくて、まさにイエス個人の男女平等思想が残滓として投影されたものであること。そしてペテロや使徒たちが原始キリスト教団を確立し、それを広範に布教させるにあたっては、イエスの革命思想を希釈(歪曲捏造)して、当時のユダヤ社会と政治的な妥協を図る必要があっただろうということ。ブラウンはティービングにペテロの女性差別主義を非難させているが、実際にはそれほど単純なものではなかったに違いない。

『ダ・ヴィンチ・コード』 (5) - イエスの復権と男女平等主義 _b0018539_1045850.jpgイエスの革命思想を原理的にそのまま貫徹していれば、ユダヤ人社会の旧約的原理との軋轢は激烈なものとなり、両者は融和し得ず、そしてイエスの思想の普及も歴史への定着もなかったのではないか。そのような予想を自然に抱く。古代における男女差別の現実は現在のわれわれの想像をはるかに超える。同じ人間でありながら、女は男の奴隷の存在に等しい。マグダラのマリアはマグダラの女というほどの意味でしかなく、一個の人間としての名前を付与されていない。平安期日本の『更級日記』の菅原孝標の女と同じ。家父長制の古代社会で男女平等を公然と説き、教団運営を女性に委ねるということは、まさにイエスの教説が当時の社会体制に対して根本から反逆する過激な反体制思想であったということを意味する。懼くそのままの形では生き延びられなかっただろう。

『ダ・ヴィンチ・コード』 (5) - イエスの復権と男女平等主義 _b0018539_1051184.jpg男女同権論者としてのイエスの思想像。最古の外典福音書(死海文書、ナグ・ハマディ文書)の発見と聖杯伝説研究の成果は、人間イエスの実像とイエスの革命思想を前面に浮かび上がらせて、現代のキリスト教世界に生きる人々の歴史認識に強烈に迫っている。いわばキリスト教の解体脱構築。それはイエスの復権であり、正統カトリック教会の歴史的相対化を意味する。歪曲されたイエス像を正して真実を対置する営みである。この営為によってカトリック教会は少なからず打撃を受けるが、キリスト教全体として見れば、人々の関心が再びイエスの思想に向かい、その救済思想が説得的に再構築されて現代世界に再定置される結果に導かれる。何だかんだと言っても、欧米人にとって自らの思想的伝統はキリスト教に負っているのであり、それは決して否定消滅できるものではない。

聖杯伝説が説くところは、こうして異端から正統に逆転しつつある。
by thessalonike | 2004-09-19 23:30 | 『ダ・ヴィンチ・コード』 (7)   INDEX  
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