近所の本屋で平積みされていたので買って来た。値段が安かったこと、装丁が美しかったこと、薄くてすぐに読めそうだったこと、そして何より出版社がポプラ社だったことが衝動買いした理由である。ネットで見てみると、紀伊国屋書店で総合8位、旭屋書店で総合9位、ジュンク堂書店で総合15位、TSUTAYAで文芸部門4位にランキングされている。この本は小学生の子を持った母親が子供と一緒に読む本だ。だから郊外の住宅地の本屋で売られている。が、ネットの書評などを一瞥して気がつくように、決して単純な童話本ではないし、子供向けの道徳書でもない。「成功哲学」などとジャンルをカテゴライズしているところもある。ビジネスの哲学の本であり、大人が読んで味わうことのできる本だ。が、単にビジネスマンに限らず、男でも女でも、若年でも高齢者でも読んで共感を覚えられる本である。
教育的で含蓄深い啓蒙書。さらに言えば寓話と隠喩の方法が知識的であり、教育書の外装の中に省察を促がされる問題系がある。はたと立ち止まって様々な意味を考えてしまう。ポプラ社というブランドで想起させられるのは、あの吉野源三郎の『
君たちはどう生きるか』だ。ポプラ社という名前は私にとって強烈に意味が重い。この本にもブランドを感じさせるものが微かにある。だが、しかし実際には相当に違う。外貌は似ているのだが、吉野源三郎への共感とは全く逆のものを私は感じた。最初に言えば、幸運とは何かが物語のテーマである。二人の騎士が登場して、一週間かけて森の中で幸運を齎す四葉のクローバーを探し回る。片方は幸運を自分のものにし、片方は運から見放されて破滅する。その対照が素朴に描かれ、成功と不成功を分けた両者の行動モデルの差異が教訓として総括される。
幸運を掴むためには平素から目標を立てて地道な努力をする必要があり、周囲と協力して共存関係を築いて行かねばならず、時間の節約を心がけ、無駄を抑制し、誘惑や甘言に惑わされず、着実に準備を整える必要がある。幸運の種子は生きる者全員に天から等しく降り注がれているが、それを果実として収穫できるのは努力と準備を怠らなかった者だけである。それが物語のメッセージだ。現在の日本人、特に(ネットに拠って)自己の無知と無教養を世の中の無意味に置き換えて愚図っているような若者世代にはウケないだろう。そういう者は読む必要はない。学校にも稀にいる生真面目な教師の説教を聞くようで嫌になるだろう。現在の日本は、『Good Luck』と社会的気分が最も乖離した時代だ。もっと言えば、よほど教養と理念を持った親がいる家庭でないと、この本を子供に読ませられない。
ある程度の所得があるか、それとも志(こころざし)の高い親がいる家庭の子供のみが『Good Luck』を読ませてもらえる。小学生のわが子を真面目な人格に育てたい母親ならば、この本を子供と一緒に読むべきだ。が、それはひとまず一般論として言えるのだが、その一般道徳や訓戒的なものに対する私なりの現在の拒絶感というのも、やはりここで吐露しないわけにはいかない。この本を書いたのは欧州のコンサルタントだ。この本のメッセージが今いちばん気分的に適合する社会は中国だろう。努力すれば報われる。努力を怠れば没落する。誰でも夢を見ることができ、前提条件はイーブンである。全体のパイが拡大して、高度成長の恩恵に各自があずかれる。果たして、米国ではどうだろうか。『華氏911』を見た後だけに、この本の世界観やメッセージに手放しで賛同、共感することができない。
この本の二人の著者はマーケティングとビジネスが専門の人間である。MBA取得のビジネスエリート。後で詳しく述べたいが、この本には、懼く、トルストイの『イワンのばか』とダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』の方法が強く意識されている。さらに言えば、あのベンジャミン・フランクリンのプロテスタンティズムの禁欲倫理の世界も投影されている。紙背にそれが見える。素朴な寓話的スタイルで経済学が講義されているのであり、ビジネスを成功させる社会人の生活規範が説得されているのである。即ち、現代版ロビンソン・クルーソー物語。それが著者の狙いなのだ。その普遍的意味は確かにあるだろうし、簡単に否定はできない。だが、この「帝国」のグローバル資本主義の時代に、欧米のコンサルタントによる現代版「ロビンソン・クルーソー」モデルの話は、私の心からはあまりに遠い。