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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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村上春樹『アフターダーク』 (7) - 村上春樹は神である
村上春樹『アフターダーク』 (7) - 村上春樹は神である_b0018539_23343532.jpg近所のCDショップで今度はソニー・ロリンズを買ってきた。小説のラストで高橋が演奏する『ソニームーン・フォー・トゥー』。悪くはないけれど、素人耳にはやはりフラーの『ファイブスポット・アフター・ダーク』の方が心地よく聴こえる。ネットのブログにも『アフターダーク』に関する記事が増えてきた。玉石多い。よく読んでいる人は本当によく読んでいる。感心させられる。中でも驚いたのは、『アフターダーク』が五年前の村上春樹の短編の中で予告されていた小説だったという話で、ここまでの詳細を承知していた読者はほんの一握りだろう。村上春樹は誰もが読んで楽しめる。が、その読書の深浅の幅は本当に甚だしいものがある。私がコメントへの返信にわざとサザン・オールスターズや中島みゆきの名前を挙げたのは、実はそういう意味があって、村上春樹というのは、マス市場へのマス商品でありながら、受け取った顧客は決してそれを意識しないのだ。



村上春樹『アフターダーク』 (7) - 村上春樹は神である_b0018539_23344698.jpgつまり、村上春樹の読者は村上春樹をサザンのようなマス商品とは承知せず、特別なニッチ商品の如く錯覚するのである。知性と感性のレベルでマスを凌ぐ一段上のハイレベルのクラスのものだと認識している。そこに自分が所属し位置していると思っている。マスの一部でありながら自分を特別扱いしたい顧客は、村上春樹に仮託して自らの所属セグメンテーションを引き上げる観念倒錯を起こし、自己満足を果たすのである。逆に言えば、マス商品でありながらマス商品である真実を市場の顧客に意識させない。そこが村上春樹の超越的な素晴らしさなのである。そういう作家は村上春樹以外にいない。これはどういうことかと言うと、村上春樹は読者一人一人の心を個別にグリップしているということだ。一人一人がそれぞれ特別な形で村上春樹に心を奪われている。読者にとって村上春樹は自分の心がわかってくれる存在だ。自分を見通している存在だ。

村上春樹『アフターダーク』 (7) - 村上春樹は神である_b0018539_23345569.jpg日本の人口は1億3千万。これだけ多くの人間がいて、様々な生き方をして、多くは不可解な生き方をしていて、そして自分を本当に理解してくれる人間は何処かにいないものかと孤独にさまよい歩いている。そういう現実がある中で、村上春樹はその孤独な群れの一人一人に直接語りかけ、言葉を内面の奥底に届き響かせ、一人一人の心をそれぞれ個別に握り掴んでいる。村上春樹のメッセージというのは聴く者にとって十人十色なのであり、決して単色ではないのだ。村上春樹を一言で総括することはできない。村上春樹について誰かが(私が)与えた意味づけを他者の多数に納得させることはできない。多数の了解を取ることは不可能だ。村上春樹に対する意味づけは、読者ひとりひとりが、それぞれ個別の言葉と経験によって与えるのであり、それは特別な大切なものだ。誰かに意味を与えられることを拒否するのであり、自分だけが意味を与えるのだ。

村上春樹『アフターダーク』 (7) - 村上春樹は神である_b0018539_2335644.jpg簡単に言えば、村上春樹はまさに神なのである。現代の神。これほどのカリスマは他にいない。司馬遼太郎も神だったが、司馬遼太郎が心を掴んだのは日本人一般の心であり、読者ひとりひとりの心ではなかった。だから司馬遼太郎についての意味は一つでなくてはならず、司馬遼太郎の意味(思想像の確定)をめぐって論争(イデオロギー闘争)が行われるのである。すなわち司馬遼太郎は文学なのだけれどむしろ社会科学に近い。村上春樹は純粋に文学者だ。村上春樹をめぐってはイオロギー闘争は起きない。神でありながらその意味の確定作業を俗界で起こさせない。どこまでもどこまでも超越的な神だ。そして超越的な神であるという事実は、一人一人が自分の内面を村上春樹にギュッと握り締められているという揺るぎない確信に根拠づけられている。互いに理解し合えない者同士が、村上春樹という神を個別に信仰しているというパラドックス。

村上春樹『アフターダーク』 (7) - 村上春樹は神である_b0018539_23351644.jpgそれが今の日本の現実であり、村上春樹の偉大さであり、人間というものの困難さであり、不可思議さである。人の生き方にはバリエーションがある。譲れないものや隠したいものがある。簡単に他者の理解を到達させられないものがある。村上春樹という神を媒介して繋がっていながら、互いを容易に理解することができない。村上春樹についてはそういうことを考えさせられる。この話をもう少し続けたいが、なぜ村上春樹に心をグリップされるかと言うと、小説の中に自分が出てくるからだ。あ、これは自分だ、と思う人間が出てきて、自分が心の奥底で思っていることを言ってくれるからである。共感を覚えるのだ。時代についての感覚と認識が同じなのだ。で、今回の『アフターダーク』が、私を含めた従来の読者に物足りなさを感じさせているのは、今回の作品の中に自分が登場しないからである。自分自身を発見できない。いつも村上作品の中にいた自分に出会えない。

だから『アフターダーク』に文句を言っているのである。  
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by thessalonike | 2004-09-09 22:30 | 『アフターダーク』 (8)   INDEX  
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