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本と映画と政治の批評
by thessalonike

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『Good Luck』(4) - ポプラ社と「資本主義の精神」
『Good Luck』(4) - ポプラ社と「資本主義の精神」_b0018539_15531592.jpg『グッドラック』が各書店での週間売上で、『ダ・ヴィンチ・コード』と『アフターダーク』を抜いて最上位にランキングされている。この本についての批評は、私は最初の回で集約して書いたから特に追加することはないが、時間が経つほどに、本の中身のよさの印象よりも、この本をめぐる事件性と言うか、問題性の方に関心が傾いてくる。そしてそれは、私においてはある種の懐疑あるいは当惑として、この本全体の評価をプラスではなくマイナスに位置づけるべく作用してしまう。最も大きな問題はポプラ社というブランドという問題と、そして資本主義という問題だ。この辺りをどう説明すればよいか。説明のために多くの言葉が要る。私の当惑は、ポプラ社の内部の人間なら簡単に理解できるだろうし、業界で長く仕事している者なら、同じ意外な気持ちで今回の「事件」を眺めているに違いない。フィリップ・コトラーが絶賛している。これはまだよい。だがアイアコッカが激賞している。これは駄目だ。そんな本をポプラ社が出すべきじゃない。



『Good Luck』(4) - ポプラ社と「資本主義の精神」_b0018539_15533010.jpg私の中の懐疑と当惑について、結論から先に言えば、この「帝国」のグローバル資本主義が世界を支配して、新自由主義のイデオロギーと経済政策が世界中の中産層を「負け組」の地獄に叩き落して絶望させている今の時代に、「資本主義の精神」の説教をデフォー的な寓話方式で語ることに、一体どういう意味があるのかということだ。「負け組」はこれを読んで座右の銘にして地獄から這い上がれと諭しているのか。それともこれで敗北者の傷ついた心を癒しなさいと言うのか。それとも「負け組」に転落した者は、物語の中で破滅する騎士ノットと同じように怠け者で傲慢だったから自己責任なのだと自覚せいとでも言うのか。納得できない。新自由主義の側が「負け組」にこれを読ませてマインド・コントロールさせようとするのは理解できる。だがポプラ社が何故そのお先棒を担がなければならないのか。

『Good Luck』(4) - ポプラ社と「資本主義の精神」_b0018539_15535779.jpgこの物語の主題は「資本主義の精神」である。第三回目に確認したベンジャミン・フランクリンの訓戒集と同じものだ。大塚久雄がウェーバーを紹介するかたちで戦後日本の経営者と職業人を啓蒙した経済倫理思想と同じである。だが、時代がかく異なったとき、同じ思想であり同じ言葉であっても、その意味は全く異なる。封建から近代へという問題意識の中で健全な資本主義を作ろうとしていた戦後日本社会においては、大塚久雄もウェーバーも、デフォーもフランクリンも意味があった。彼らが説く資本主義の精神は、まさに近代主義として、近代的人間類型(モデル)として意味があり、その啓蒙には説得力があったのだ。それは日本人の課題であり、課題の達成はわれわれの幸福に繋がるものだった。だが、今はそういう時代ではない。資本主義とわれわれの関係が異なっている。

『Good Luck』(4) - ポプラ社と「資本主義の精神」_b0018539_1554854.jpg健全な資本主義社会を作れば個も全体も幸福になれるというような安易で楽観的な認識を持つことはできない。個々が資本主義のエートスを内在させて近代人として勤労に励めば、それで個も全体も予定調和的に福祉が実現するという前提の社会ではない。資本主義はあくまで新自由主義として暴力的に個に迫り、没落を強制し、富を一部へ、さらにごく一部へと偏在させ、没落層から税収奪を強行する。市場原理は各国各自の自由な競争ではなく、最初から米国資本と米国人に有利なルールが仕組まれていて、グローバル資本主義の中で日本人が成功するということは、生き方として米国資本の奴僕となり、植民地支配の代行エリートとなること以外にない。そういう現実の中で、「資本主義の精神」の意味を寓話で語ることに何の意味があるのか。私の懐疑と当惑とはそういうことだ。

正直、どっちが正しいとか違うとか、この人のやり方だから成功したとか、そうは思えませんでした。この種の本は、概して「こうすれば成功・幸福になれるんだ」って書きたがるのはなぜ???? どちらのやり方にも意味はあるし、理はある。他のレビューも書かれてますが、努力したからといってよい結果につながるとは限らない。とくに気になったのは、「探せ」といわれたのであって、「育てろ」といわれたのではないはずでは???? 正直、宣伝・マーケティングの勝利!!な本という印象が残りました。

アマゾンの書評にこういうのがあった。シンプルな感想だが本質を衝いている。結局、この本の本当の狙いは部数を売ることそのものなのだ。マーケティングなのである。マーケティングと児童教育。本来、この二者は簡単には相容れない。ポプラ社が果たしてどこまで緊張感を持ってやっているのか、私にはよく分からない。裏切られたという不快感が残る。売れればいいというものではないだろう。
『Good Luck』(4) - ポプラ社と「資本主義の精神」_b0018539_18335633.jpg

by thessalonike | 2004-09-27 23:30 | 『グッドラック』 (5)   INDEX  
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