『いま、会いにゆきます』(3) - 新しいプロレタリア文学
b0018539_15583695.jpg映画でどのような映像になっているかはわからないが、小説の文章だけから組み上げられた世界はとても貧しくて、気分的に耐えられなくなるようなもの寂しさに溢れている。うちひしがれた日本が映し出されている。数少ない登場人物は(犬のプーも含めて)どれも不幸な境遇の者ばかりだ。肉親者の偶然の運命や身体の遺伝的体質による不幸ではあるのだが、不幸が不幸という性格を帯びて読者の注意を惹かないのは、この小説の世界が不幸的世界として密閉的に完結されていて、つまりは対極にあるはずの裕福的世界のモメントが捨象されていて、裕福的現実との接触や対立がなく、現世的な不幸と幸福の対立項が描き出されてないからだろうと思われる。簡単に言えば、富裕で贅沢をしている人間とか、権力を持って奢っている人間が一人も出て来ず、例えばこうした設定ではありがちな、弱者である巧の弱みにつけこんで悪意で意地悪する医者といった存在が顔を出さないからである。



b0018539_15585870.jpg想像したのは、97年からインターネットで小説を発表し始めたとだけ紹介のある著者のことで、当然ながら主人公の巧の感性は市川拓司のそれが投影されている。獨協大学卒の42歳。現在の日本には二つの社会空間がある。一つは丸の内とか六本木とか汐留とかの東京都心の空間で、そこには大規模に資本が投下され、立派な超高層ビルが立ち並び、高級なブランド商品を売るテナントが揃い、外資系企業がオフィスを構え、ストラップで首にネームカードを吊るして胸を張って歩いている外人と、その後ろをくっついて歩いている(外人の身の回りの世話をする)実質奴僕で似非エリートの日本人がいる。もう一つの社会空間はそれ以外の空間で、コンビニと百円ショップとファミレスが道路沿いに並ぶ殺風景な町で、ユニクロ製品を身に着けた中高年の日本人がいて、年金の心配をしながら軽ワゴン車を運転してTSUTAYAにレンタルビデオを借りに行っている。

b0018539_16235926.jpg社会が二極分解して、二極化した社会の態様は抽象的にではなく、物理的に二つの独立した空間のコントラストとして経済的に存在している。で、この東京都心の豊かな社会空間の人間たちの生活については、何故か知らぬが、あまり小説などの題材にはならないようだ。恐らくだが、市川拓司がこれまで住んできた世界も、いま住んでいる世界も、二極化世界の下側の世界なのに違いない。弱者に対する優しい視線や感性がそこにある。そしてこの本を読んで感動して泣いている人間も、この下側の「貧しい世界」に住んでいるマスの弱者たちなのだろう。この本を読んで気分が塞がれてしまうのは、そういう想像のせいでもあるが、そこからもう少し踏み込んで言うなら、きっと村上春樹に続くであろう現代文学のヒットメーカーは、もはや東大とか早慶一橋からは出て来ずに、市川拓司的な地味なバックグラウンドとスタイルをもって出て来るのではないかという気がしてならない。

b0018539_15594526.jpg上の社会空間で生きている人間たちは、平日においては英語の業務ドキュメントに埋もれて、日々その咀嚼と消化に必死であり、週末の文化生活においても米国人が感動したものを(できれば英語のままで)追体験して感動する努力で精一杯であり、日本語の文学やその感動という問題から関心が離れてしまっている。日本語の文章にはむしろあまり関心を持たない方がよい。少なくとも三十代まではその生活態度を貫徹させた方が無難である。日本語の本を読むなら株の本に目を通すくらいでいいだろう。日本文学は仕事をリタイアした後か、負け組に転落して暇になった時に読めばいい。だからこの部分は(日本語の)文芸的なものの生産基地にはならないし、消費市場にもならないのである。彼らにとっての日本は、敢えて言えば、米国人が捉えたJAPANであり、『キルビル』や『ラストサムライ』や、せいぜい宮崎駿のアニメーションが関心の範囲に入る日本文化なのである。

b0018539_1618079.jpg下層の社会空間で市川拓司が感動的に読まれ、その感動がネットに書き込まれている。それほど上質なものではなく、粗悪と言っては著者に失礼だが、基本的に貧相なものである。他にないから売れる。レベルが低くてわかりやすいから売れる。何か日本人の「感動」の水準が下がったようで淋しい。あのアニマル浜口と浜口京子の銅メダルに「感動した」と言っている日本人の感動と同じようにレベルの低いもののようで哀しい。日本人の感動の水準と品質が劣化し低下している。これはプロレタリア化だ。プロレタリア的な感動だ。プリミティブでコンビニエントな文学的感動だ。その社会的真実を村上春樹はそれとなく察知し感得しているのだろう。昔のような堅実な知性と思想を持った日本人一般がすでにない。プロレタリア化し野蛮化している。頭の中が空っぽでも世界の支配者として威張れる米国人一般のようになろうとして、変身を遂げ、その変身を米国から歓迎されているのである。

21世紀日本における新しいプロレタリア文学の出現。
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by thessalonike | 2004-11-24 22:30 | 『いま、会いにゆきます』 (5)   INDEX  
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