この小説の中で一点だけ強く印象に残った部分がある。それは澪が最後に消えて行ってアーカイブ星に帰って行く場面の描写だ。物語のクライマックスであり、澪が幽霊として登場した時点から、読者はこのラストの結末がどう描かれるのかが最大の関心事になって前に読み進む。澪はどのようにしてアーカイブ星に帰るのか。このラストシーンが力が入っていてよく出来ている。突然パッと消えるのかと思ったが、そうではなく徐々に消えて行くのだ。澪が少し苦しそうな様子をしていて、巧に手を握られながら二人で最期の別れをする。これは明らかに澪が病室で息を引き取ったときの情景が暗喩されている。澪はこのようにしてこの町の病院で死んだのであり、二人は最期の言葉を交わし合ったのだ。祐司が「ママ、ママ」と言っているのは、病室のベッドで息絶えた姿の澪に向かって呼びかけているのである。このクライマックスの描き方が実にいい。読者をそのまま感動の世界に誘う。
「手を握っていて」
彼女は寂しそうな笑みを浮かべた。
「お願い、最後の瞬間まで」
「わかった」
ぼくは自分の右手で澪の左手を掴んだ。強い力で。
そうすれば、彼女をこの世界に引き留めていられると信じているかのように。
澪は細い手で、ぎゅっとぼくの手を握り返した。
そしてぼくらは手を繋ぎ心をひとつにして、最初の大きな不安の嵐を乗り切った。
やがて、つかの間の平静が訪れた。
「ねえ」
彼女が言った。
「私はあなたを幸せにできたかしら?」
「幸せだよ。もう充分に。きみがこのぼくと結婚してくれただけで、もう充分すぎるほど幸せだった」
「そう?」
「うん」
澪の右手が肘の上まで消えて無くなっていた、残された時間はあとわずかだった。
「身体に気を付けてね」
彼女が言った。
大きな目に涙が溢れ、その縁が桜色に染まっていた。
「それだけが心配なの」
「気を付けるよ。少しでも良くなるように努力する」
「がんばって生きてね」
「うん」
彼女の姿がふいに揺らいだ。繋いだ指先の感覚がひどく頼りないものになっていた。
すでに彼女の右半身は消えていた。
澪はそれでもまだ、懸命にぼくに言葉を伝えようとしていた。
「あなたの隣はいごこちがよかった。できるなら、ずっといつまでもあなたの隣にいたかった」
「うん」
「愛してるの。あなたが好きよ。あなたの奥さんでよかった」
「ぼくもだよ、ぼくも」
彼女がにっこり微笑んだ。
半分だけの微笑み。
「ありがとうあなた」
いつか、また、どこかで会いましょうね・・
言葉だけが、何もないところに浮かんでいた。
ぼくは自分の握りしめた右手を見た。
そこにあるのは、彼女の半身によく似た、桜色の霞だった。
やがて、風が吹き、それも消えてしまった。
彼女の匂いだけが残った。
『あの匂い』だった。
彼女がぼくに向けて放つ親密な言葉。
世界にひとつだけの言葉。
(P.328-333)