『ハウルの動く城』(3) - キャラクターの意味づけの不安定さ
b0018539_1330161.jpg今回も宮崎アニメらしい魅力的なキャラクターが登場して、それだけで十分楽しめたと満足している宮崎駿ファンも多くいる。だが、キャラクター設定について率直なところを言えば、ドラマの中での役割配置が不明瞭で、ストーリーの混乱に拍車をかけている印象を否めない。全てはストーリーの破綻という一点に収斂する問題だと思われるが、個々について具体的に述べてみよう。例えば荒地の魔女、このキャラクターはどう説明すればよいのだろう。最初は恐るべき悪魔である。観客が感情移入しようとしている主人公ソフィーに理不尽に魔法をかけ老婆にしてしまう。ソフィーを不幸のどん底に突き落とす。ソフィーは生活を失い、憐れにも家を捨て町を出る。ここまでは立派な悪役なのだが、王宮に招請されてソフィーと一緒に階段を上り始める前後からキャラクターのポジショニングがチェンジし始め、ソフィーの操縦する飛行機に乗ってハウルの城に飛び込んで来てからは、魔女の能力と性格を失って只の要介護老婆となり、被扶養者としてソフィーの家族の一員になる。



b0018539_13302090.jpgと思っていたら、相変わらず魔法使いの技能は健在で、サリマンが仕掛けてきた謀略を見破ってハウルとソフィーの危機を救う。ここまではまだ理解できるが、最後のドタバタ劇の中では再び魔女の悪魔性を取り戻したのか、カルシファーに襲いかかって心臓を獲って食おうとする。が、またすぐにコケティッシュな元の老婆に戻って「家族」のハッピーエンドの脇役を演じている。性格が二転三転して理解しづらく配役の意味を把握しがたい。二項対立否定主義の巨匠である宮崎駿のことだから、悪役をスタティックにフィックスさせず、ドラマの展開と状況の中でキャラクターを自在にスイッチさせて、見る者の想像力を刺激したり、メッセージがシンプルになるのを抑えているのだろう。しかしその操作があまり過剰で露骨だと物語の基本線が怪しくなって、世界名作劇場の仲間入りも首を捻る結果にならざるを得ない。宮崎アニメに古典的で様式的な勧善懲悪劇を求める日本人は一人もいないだろうが、「世界名作劇場」と言うかぎりは、話の基本が分かりやすくなければならない。

b0018539_13303785.jpgサリマンも同様である。権力に心を売った冷酷で狡猾な悪魔なのか、それとも信念と理想を持った本格的な政治指導者なのか。サリマンの戦争には正義はないのか。ソフィーと直接対峙する場面は一回きりだが、気品と風格の漂う加藤治子のあの声の響きが聞こえてくると、この老女がドラマの中の最も憎むべき悪役だとは感じられない。逆にサリマンの説諭に耳を傾けて物語全体の状況と背景を読み取ろうとするし、また、微かに漏れ見せる若いハウルへの未練やソフィーへの女の嫉妬を感じて、キャラクターとしてのサリマンに対して憎悪や敵意の感情は生まれにくいのである。そもそも新劇女優で平和主義者の印象の強い加藤治子と冷酷非情な戦争主義者の権力的悪魔とは私の中で結びつきにくい。加藤治子と倍賞千恵子と美輪明宏、この三人がアニメ映画で揃えば、最後はめでたく仲良く一つの輪になって当然という事前の予想(空想)が働いてしまう。結局のところ、サリマンのキャラクター像はコンフューズしたまま、決定的な定義を与えられず、微妙なイメージで留保し続けなければならない。

b0018539_1330547.jpgソフィーもまた同様である。中盤まではいい感じで感情移入を継続できるのだが、終盤の意味不明なドタバタ劇でソフィーのキャラクター(人物像)が錯乱させられる。城の掃除婦になり、「家族」の中心的存在になり、母親のように家族を世話するソフィーには貫禄が十分でカリスマ性を帯びた安定感がある。さあ、後は魔法の氷解とハウルとの愛の成就だけかと思って見ていると、突然カルシファーに水をかける失態を演じ、城を破壊する騒動の中心でバタバタ立ち回っている。意味不明な行動をとり始め、意味不明な言葉を吐き始める。ソフィーという人間が理解できなくなる。強さと弱さ、安定感と不安定感がバラバラに連関なく演出され、ソフィーのキャラクター像の動揺と共に物語全体が起承転結の一貫性のバランスを失って、見る者の共感や理解の外側にはみ出て行く。感情移入していた心はソフィーと決別し、奇妙で安直なハッピーエンドのラストを醒めた気分で眺めている。物語の序盤でいっぱい詰め込んでいた希望や疑問が何も埋まらないまま放置されて後味が悪い。

b0018539_13311221.jpgネットの議論では、作品の賛否を超えて、すでに映画論の範疇で論争が続いている。映画は観客に対して一回勝負のものなのか、それとも二回、三回と見させて理解を深めさせ評価を得るものなのか。立場は二つに分かれている。映画館に二回通えば3600円。三回で5400円。私は、一回の鑑賞では理解と共感ができないアニメ作品を観客に映画館で何度も見させて、さらにDVDをレンタルさせて、作品の思想的意味を説得する態度と方法が文化として普遍的で妥当なものだとは思わない。そのスタイルで全世界の観客の理解と納得を得られるとは思わない。日本だけの文化であり、そうした文化的浪費を生活習慣として是認するのは日本人だけだ。宮崎アニメに特別な地位を与え、湯水の如く金銭を貢いでいる日本人だけの世界において「二度見て当然」の主張が正当視されるのだと思う。繰り返すが、宮崎アニメに対して(癒着的な)内在的理解を示す日本で賛否の分かれる作品が、異文化の諸国で高い評価を獲得できるとは思えない。欧米の映画祭の審査員は同じ作品を二回も三回も見て判断を下すのだろうか。
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by thessalonike | 2004-12-08 22:30 | 『ハウルの動く城』 (8)   INDEX  
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