『ハウルの動く城』(4) - 暗喩と象徴             
b0018539_1319495.jpg宮崎アニメの批評だから、作品が象徴するものを論じなければならない。宮崎作品の魅力は映像そのもの以上に意味を考えさせるところにある。意味を考えさせてくれるから宮崎作品は面白く、観客の知性を刺激するのであり、そのことが宮崎駿のインテレクチュアルとしての高い評価にも繋がっている。ところが豈に図らんや、今回の『ハウルの動く城』には特に暗喩と象徴を考えさせてくれる材料がなかった。インパクトが弱いのである。何が何を意味しているのか、誰が何を象徴しているのか、監督の意図と主張はどこにあるのか、それがよく分からない。ネットの中ではジブリファンが宮崎監督を代弁して「愚衆」に向かって見下げた口調で解説を垂れているのだが、どの説明も適当な牽強付会の印象を免れず説得力が弱い。何と言っても今回の作品では宮崎監督本人が口を開いていない。監督がプロモーションのフロントに立っていない。前作のテレビ広告では、宮崎駿自らが自分の言葉で「みんなの中にもカオナシはいます」とメッセージを投げていた。



b0018539_13193038.jpgこの言葉はインパクトがとても大きくて、映画の中でもカオナシの存在に強烈な衝撃を受けたものだ。作品は全編にいろんな意味と暗喩が宝石箱のように散りばめられていて、物語の中身も深く濃いものが感じられたが、何より見た者が考えるべきはカオナシの意味であり、そこには現代の日本が見事に映し出されていた。他人とコミュニケーションがとれず、金で人を操ろうとして、物事が思いどおりにならないと暴れ狂う幼児的な男。自立性も協調性もなく、感情のまま自己主張を喚き散らす未熟な人間。そういう人間がここ十年ほどの間に世代を超えて増殖していた。それは自分とは無縁な他人事の話ではなく、カオナシ的な状況が社会を - メディアを政治を学校を職場を - 侵食し影響を強めていく環境の中で、ひとりひとりがカオナシ的プロトコルに接触、感染し、自己弁護的に言えば免疫抗体を体内生成するように、カオナシと通信するインタフェースを具有しつつあるという実感、すなわち自分もカオナシ化しているという問題の自覚でもあった。

b0018539_15502016.jpg日本人のカオナシ化。映画を見た者は誰しも同じ思いを持っただろう。カオナシはまさに(名前からしても意味深く)シンボリックな存在であり、われわれは現代の社会状況を語るときに、一言「カオナシ」と言えば、百万語の心理学や社会学の専門用語の動員を省略して、問題の本質を察知したり思考を膨らますことができる。この表現と問題提起は宮崎駿の社会科学的快挙であり、画期的な成功であったと言える。『千と千尋の神隠し』は極端に言えばカオナシの映画だ。カオナシはジブリ作品に精通した宮崎ファンでなくても一般的にその象徴的意味を理解できる。それは日本人だけでなく、世界の人々にも同じだったのではないか。同様の問題状況が社会的に発生しているに違いない。カオナシは諸外国の観客にとって理解不能な日本の特殊なキャラクターではなく、現代世界の問題状況を射抜く普遍的な象徴装置であり、その監督の手腕に世界の人々が感動したのだろう。前作への世界の評価は単にアニメ映像の芸術美や想像力だけではなかったはずだ。

b0018539_1320819.jpg翻って今度の『ハウルの動く城』を見たとき、そうした本質的な社会問題を発見、覚醒させる契機が特に思いつかない。高齢化社会論でもない。戦争論でもない。魔法をかけられて老婆になった話は、容貌に自信のないソフィーのコンプレックスを意味し、家出は自己逃避であり、そしてハウルとの愛によって自己を回復する物語である云々という解読もある。何とも一般論的で薄弱な解釈だ。容姿コンプレックスに苛まれて自己逃避している女が、なぜあれほどあっけなく若い美貌の男に愛を告白できるのか。すでにそこに矛盾がある。現代の日本の女は、むしろ自分の容姿や知能や性格など顧みず、堂々と進んでいい男の愛を得ようとして行動に出ているし、仕事においても男を押しのけて人前に出ようとする積極性に溢れている。だから女が内攻的に萎縮する絵は基本的に現代の写し鏡にならない。日本の中高年の女たち、それはジブリ作品で子供を育ててきた母親たちだが、みな自分に自信を持ち、年下の若い男と恋愛をすることに躊躇や屈折はない。

b0018539_13202071.jpg高齢の女が若くて美しい男を愛する映画で現代人に何かを説得するのなら、もっと踏み込んで年齢差のある愛を本格的に問題提起してもよかった。あのような意味不明なハッピーエンドに纏めるのではなく、愛が破れて傷つく悲劇の結末でもよかった。簡単には愛が結ばれない真実を描いてもよかった。あるいはソフィーがハウルの子を身籠って、月満ちた瞬間に白髪が黒髪に戻る感動の話でもよかった。木村拓哉と倍賞千恵子の二人であれば、大人の愛を演じても決して不自然ではない。あと、少し話が脱線するが、アイドルのハウルのラブシーンを期待した観客も多かったのではないだろうか。映画の中ではボロボロになって風呂に入るシーンで一度だけセミヌードを見せるサービスがある。意味不明な空中戦ばかりやらせてないで、女を愛するロマンティックな場面を演出してもよかった。若く化けた荒地の魔女でもソフィーでも。せっかくキムタクを起用して、キムタクハウル目当ての女性客を映画館に集めたのだから。
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by thessalonike | 2004-12-07 23:30 | 『ハウルの動く城』 (8)   INDEX  
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