村上春樹『アフターダーク』 (4) - 若い読者との距離感
b0018539_2230931.jpgいま、カーティス・フラーの『ファイブスポット・アフター・ダーク』を聞きながらこれを書いている。昨日、銀座の山野楽器本店へ行って早速CDを買ってきた。店員がレジカウンターの横からすぐに取り出してくれた。『ブルースエット』は定番の商品だと言う。なるほど聞き覚えがある。いい曲だ。村上春樹は読者を裏切らない。外で雨が降る9月の静かな日に部屋の中で聞くのにいい。ジャズを聴くのはひさしぶりだが、懐かしく満ち足りた嬉しい気分になった。デニーズ、すかいらーく、セブンイレブン、ラブホテル、安価で粗悪で夢のない演出道具ばかりが揃え並べられた中で、このジャズの曲だけが、唯一、夢のある豊かで素敵なもののように思える。次はソニー・ロリンズの『ソニームーン・フォー・トゥー』を聴いてみよう。



b0018539_22302333.jpg前回、村上春樹のこの小説の企図と作為について勝手な想像を及ばせてみた。意図的にコンパクトでチープな作品設計と場面演出で実験を試みたのではないかという推測だったが、もし仮にそれが本当であったとして、それは一体何のためだったのだろう。日本の現代を鏡のように正確に捉えて映し出すという点が一つあるとして、それ以外の目的は何だろう。考えすぎかも知れないが、私はどうも読者への意識(距離感の模索)があるように感じられてならない。日本の若い世代に読ませてみようとしているのではないか。十代二十代の若い人間がこれを読んで共感するかどうか、この世代を新しい読者層としてグリップできるかどうか、もし村上春樹の今回の作品に実験があるとすれば、懼くそういうことなのではないか。

b0018539_2230338.jpg村上春樹も年をとり、読者もまた年をとった。考えてみれば『ノルウェイの森』の爆発的大ヒットから二十年の歳月が経っている。時代は大きく変わり、生きている人間も大きく変わった。村上春樹は常に時代の変化をグリップし続けて、それをわれわれ読者に示し続けてくれたが、その村上春樹でさえ、今の日本の若い人間というのは相当に困難な文学的実体なのだろう。村上春樹が若い世代の読者との距離感を計っている。私にはそう思われた。彼らは内面の掘り下げや省察的要素は苦痛なのだ。省察も諦観も本来的に彼らのものではない。深くて重い思考に耐えられる精神がなく、それらを楽しむ思惟的基盤がない。そうした人間性として出来上がっていて、後の人生もそのままで行くしかない。それが世の中の多数になる。

b0018539_22304518.jpg「寸止め」が今の若い世代の常態なのであり、マリ程度のところがちょうど具合がいい按配なのではないのか。高橋くらいまでだと深すぎて重すぎる感じになるのではないのか。若い世代は『海辺のカフカ』では村上作品を実感として素晴らしいと感じられず、『アフターダーク』程度でようやくその雰囲気(村上春樹の世界)に接触できた気分になるのに違いない。若い世代にとって『海辺のカフカ』は何やらドストエフスキーのような難解で敬遠すべき歴史的偶像の存在になってしまうのではないか。今回の作品に狙いがあるとして、村上春樹の意図どおりに結果が出る局面というのは、従来のコアの読者層から「物足りない」という不満が出て、逆に新しい若い世代層から「面白い」という評価を受けること。私はそう思っている。

b0018539_22305637.jpg例のセックスの不在の問題もその視角からの解読で説明がつくのではないか。セックスというのは本当に内面的な問題だ。内面的な問題だからこそセックスは文学の主題になり、科学ではなく文学の方法で解き語られる。セックスは肉体ではなく内面でやるものだ。それはわれわれがよく知っていることであり、村上春樹が説得してきたことであり、村上春樹の作品を読んで強く確認することでもある。内面のないセックスなんてない。だから内面性のない世界でセックスが描かれるということはないのだ。今の若者たちは本当にセックスをしているのか。それはAV産業が市場供給する商品映像のシミュレーションゲームであり、その成功や失敗ではないのか。シミュレーションに失敗した子たちにとってのセックスはどうなるのか。

『アフターダーク』を読みながら考えたことはそういうことだった。
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by thessalonike | 2004-09-14 23:30 | 『アフターダーク』 (8)   INDEX  
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