人気ブログランキング |
日本の欺瞞 - 「何度も謝罪した」「靖国参拝は平和のため」
b0018539_1171813.jpg右翼側の主張として頻用される論法として「日本は何回謝罪すればいいのか」というのがある。日本はこれまで何十回も謝罪してきたのだから、もういい加減に中国や韓国は日本に謝罪を要求するのはやめろという言い分である。欧米のマスコミの中でもこのトリックに軽率に騙されて、字面をそのまま鵜呑みにしてしまっている向きもある。何度も謝罪を要求したくないのはむしろ中国や韓国の方であって、無理に謝罪を強要しているように見られたり、過去に拘泥しているように国際社会から見られるのは不本意なのが本当のところなのだ。日本が何度も謝罪しなければならないのは、謝罪した後で繰り返しその謝罪をリセットしているからである。謝罪をリセットする行為に及ぶから、再び謝罪を要求される立場に立つのである。これは喩えれば、俺は何度も罰金も払ったし懲役も受けたのだから覚醒剤を使ってもいいのだと田代まさしが言っているのと同じである。倒錯した開き直りの反論だ。



b0018539_1173843.jpg犯罪を犯せば何度でも贖罪しなければならない。刑に服しても同じ罪を犯せば、また同じように裁判を受けて罪を償わなければならない。一度の服刑は免罪符にはならない。過ちを犯し、過ちを認めて謝罪した者は、反省し、二度と過ちを繰り返さぬことを誓ってその後の自己の人生を送らなければならない。交通事故で加害者となった者も同様だろう。日本の右翼が言うところの「日本は何度も謝罪した」は、日本の立場を正当化したり正当性を補強する材料にはならず、逆に謝罪と謝罪のリセットを繰り返す日本がいかに無自覚で不名誉な存在であるかを示す証拠である。日本政府が17回謝罪した事実が重要なのではなく、17回も謝罪をリセットした問題が重要で深刻なのである。今回の中韓両国の反日抗議行動に対して、官房長官や外相は繰り返し「日本政府の基本姿勢は95年の村山談話にある」と言っている。これもまた村山談話を免罪符として使う姑息で狡知な詐術の政治である。

b0018539_1174772.jpg一度「村山談話」を言ったからいいじゃないかと開き直っているのだ。村山談話は日本政府のタテマエとしては存在するが、日本外交の現実を拘束する原理原則として機能しておらず、完全にスポイルされている。タテマエとしての村山談話をいくらパスポートのように翳しても、実際にやっていることが村山談話を裏切る行為であれば、それは国際宣言としての村山談話の否定であり、外交として通用しない。村山談話は、現在、日本政府が自己を正当化する道具として本末転倒した形で悪用されている。戦後五十周年の終戦記念日に村山談話を発し、「植民地支配と侵略によって多大の損害と苦痛を与え」た「アジア諸国の人々に」「歴史の事実を謙虚に受け止め」「あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」した日本が、戦前の軍国主義のシンボルとして内外から批判される靖国神社に総理大臣を参拝させながら、同じ日本政府が村山談話の遵守を言ってもそれは詭弁であろう。

b0018539_117572.jpg小泉政権と右翼の詭弁は他にもあり、例えば「小泉首相は戦争の反省と平和の祈願の目的で靖国に参拝しているのだから何も問題はない」という論法がある。聞き苦しく、苦笑を誘う詭弁である。同じ口で北朝鮮への武力攻撃や中国への自衛隊派遣を声高に叫んでいる右翼が、スリカエの詭弁を言うときだけは奇妙に反省や平和の言葉に傅き就いている。その神妙さが空々しく、右翼の口元に詭弁の自己破綻を認める衒いが見えている。戦争への反省を誓う場所として靖国神社は相応しくない。戦争を賛美する場所としてのみ靖国神社は神聖である。右翼と小泉政権の詭弁は、戦争肯定主義の神殿である靖国神社の本来の思想を歪曲する逸脱と欺瞞の論法であろう。戦争肯定主義に純化しない欺瞞を孕んだ右翼の靖国神社参拝正当化の政治手法は、こうして靖国神社そのものの本来的な政治性と欺瞞性を内側から証明しているように思われる。信仰の世界とは無縁な政治の道具としての靖国神社。

b0018539_118789.jpgこうした欺瞞と詐術の論法は、ここ十年ほどの日本の政治の世界を覆い尽くしている感があって、例えばイラクへの自衛隊派遣を合理化する論拠として日本国憲法前文の国際協調主義の原理が援用されるのもそうだし、賄賂を受け取った自民党の国会議員が「政治資金規正法に則って適正に処理した」と嘯く逃げ口上も同じである。本来、それを禁止し抑制するために規定されている法理を、逆転させてそれを正当化する根拠としてスリカエる。逸脱のために悪用する。法の理念と現実の乖離と背反、自己欺瞞の状況的正当化。日本の官僚には本来的にその体質があり、欺瞞を隠蔽する細工が巧い。だが、歴代の日本の指導者の中で、小泉首相ほどその欺瞞を堂々と押し通す人間はいないのではないか。この男は政治を演劇だと定義し、政治家を俳優だと確信しているようだが、欺瞞を欺瞞として被治者の政治意識に上らせず、視覚的感性の力で大衆を観念操作した技術において、無類の才能を持った政治家であったことは間違いない。

b0018539_1181896.jpg

by thessalonike | 2005-04-19 23:25 | 靖国問題 (10)   INDEX  
<< 転換期の日中関係 - 中国にお... Indexに戻る 日本の右傾化と国際的孤立 - ... >>