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高文研 『日本・中国・韓国共同研究-未来をひらく歴史』 (3)
b0018539_16375896.jpgナショナリズムの歴史認識の問題について続けたい。明石書店から出ている韓国と中国の歴史教科書を立ち読みで読んだことがある。中韓それぞれ小学校、中学校、高等学校の歴史教科書が出版されていて、全部揃えれば六冊になる。商品として魅力的で食指が動くのだが、一冊の価格が三千円から六千円と高く、残念ながら貧乏人には手が出せない。仕方なく中学校と高校用の二冊ずつ計四冊を本屋で立ち読みした。立ち読みしたところでの感想を言うと、特に中国の歴史教科書は面白くて、いい感じの中身に仕上がっていた。TBSの『ブロードキャスター』の報道などでその強烈な「反日」傾向が槍玉に上げられ批判されていたので、相当に偏向したものを予想していたのだが、実際にはそのような記述は皆無だった。むしろ無さすぎて不満に感じたほどで、期待した抗日戦争に関する項もきわめて分量が少なく、過激な表現を探したこちらが落胆させられるほどだった。率直に言って中国の歴史教科書はとてもよく出来ている。過不足のない端正な社会科学の方法的センスが感じられ、何となく懐かしさのようなものを覚えさせられた。優秀な著者が自信を持って筆八分でサラリと書き纏めている。



b0018539_1775739.jpg中国の歴史教科書が右翼が言うような反日教科書でない事実は、明石書店の本をわざわざ立ち読みしなくても、最近出た別冊宝島の『中国・韓国の歴史教科書に書かれた日本』を一読すればすぐにわかる。この中で別冊宝島の編集部は、中国の歴史教科書の中に七三一部隊の話や従軍慰安婦の話が殆ど書かれてない事を発見して驚いている。さて、中国の歴史教科書を読んでも、また韓国の歴史教科書を読んでも、私の場合、まず最初に強く感じさせられたのは、反日教育のイデオロギー性などではなく、その歴史教科書の記述様式が実に日本史のそれとよく似ているということである。歴史を大きく古代・中世・近世・近代と画期し、まず政治事件と政治制度の話から時代を整理し、経済構造(土地制度)の変容について理解を及ばせ、そして最後に文化について沢山の固有名詞をズラッと羅列する歴史叙述のスタイルが、まさに日本の歴史教科書とそっくりで驚かされるのである。驚かされると同時に嬉しい気分になる。韓国や中国の学生たちにとっての歴史の勉強は、きっと日本の学生と同じように暗記であり、あの色付きビニールなどを使ってせっせと暗記に励んでいるに違いない。

b0018539_16384742.jpgそんなことを思わされる。よく似ているのだ。どう考えても韓国や中国の文部省の役人が日本の歴史教科書を研究して、それを参考にして自国の歴史教科書を作ったとしか思えない。よく似ているのである。特に韓国の歴史教科書は日本の歴史教科書とよく似ている。フォーマットと言うか、テンプレートとしての方法論は殆ど同一の方式と言っても過言ではない。我々はそこに右翼が言うような「反日」記述の要素をアラ探しして目くじらを立てるのではなく、韓国の歴史教科書や中国の歴史教科書が日本の歴史教科書と記述スタイルが似ている事実に感動を覚えるべきではないのか。私はそう思う。日本が先進国として初等中等歴史教科の教育方式においても手本を示してきた実績について誇らしく感じていればいいのだ。「反日」記述のアラ探しなど無用であり、情けなく自己卑下的な態度である。簡単に言えば、戦後の歴史教育を理論的に導いてきたマルクス主義と近代主義の折衷が日本史学の方法的土台であり、その同じ方法が三国の歴史教科書の基調を共通して貫いている。そう言ってよい。

b0018539_16424888.jpg前の稿で韓国と中国の歴史教育におけるナショナリズムの問題を指摘したが、それは日本史の教科書においても基本的に同じなのだ。マイルドなナショナリズムがある。日本人の民族の発展の物語としての基調は確実にある。右翼「つくる会」のナショナリズムと違うのは、戦後民主主義の歴史教育がマイルドな国民主義の歴史認識であるのに対して、右翼のナショナリズムは国家主義と言うべき性格の排外的独善的なナショナリズムであり、その歴史認識の基礎が近代主義でもマルクス主義でもなく皇国史観にあるという事である。戦後民主主義のナショナリズムはマイルドな国民主義、右翼「つくる会」のナショナリズムは狂信的覇権的な国家主義である。戦後民主主義の思想を否定して皇国史観の原点に回帰しようとするのが右翼の運動であり、同じナショナリズムでも戦後民主主義のそれと右翼国家主義のそれでは根本的に意味と性格が異なる。国民主義と国家主義という二つの言葉の使い分けで彼我のナショナリズムの本質を弁証・説得すればよいのではないか。私の提案である。

b0018539_16385981.jpg話を歴史認識の方法の問題に戻して、八○年代以降の日本の歴史学自体が従来の方法的基礎であったマルクス主義と近代主義を放棄して脱構築(ポストモダン)の方へ旋回(転向)して行った。その代表例が網野善彦である。ナショナリズムを解体する歴史認識の方法的態度がアカデミーの主流となり、歴史を民族の物語から解放する方向へと鋭意が向けられ、ジェンダーとマイノリティの視角が脚光を浴びるようになった。これは流行として新しく、歴史学の方法として確かに先進的なものではある。だが、この基本視角で東アジアの近現代史を理論化する共同作業に韓国と中国の学界を招き入れるのはさほど簡単なことではないだろうし、本当に意味があるかどうかも疑わしい。今回も論理的媒介環を端折って同じ結論を言わねばならないが、韓国はまだ近代国民国家として未完の国なのである。中国は社会主義市場経済で多民族を国民統合するという模索を続けている。大韓民国の歴史はわずか五七年、中華人民共和国の歴史もわずか五六年。ネーションステートは未だ未完であり、挑戦と試行錯誤の途上にある。

すなわち、両国ともナショナリズム(国民主義)の歴史認識を簡単には揚棄できない。

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by thessalonike | 2005-06-16 23:30 | 歴史認識 (7)   INDEX  
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