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国民主義的歴史認識の両極分解 - 脱構築と皇国史観
b0018539_15281323.jpg歴史認識とナショナリズムの問題についてさらに考察を続けたい。西尾幹ニの『国民の歴史』を読んだのは六年前である。初版第1刷を買った。774頁の分厚い本で、時間は少しかかったが最後まで読んだ。あれくらいの分量の本を最後まで読了することは滅多にない。前半に登場するところの漢字を仮名にする話が面白く、予想した以上の知的刺激があったので、後半もそういう興味深い話題が登場するのではないかと期待して最後まで読んでしまったのである。豈に図らんや後半は全く期待外れで、近世以降は全然面白くなく、近現代史は滅茶苦茶だった。これはあの本の読者の一般的感想ではないかと思われる。古代史、すなわち中華文明(中華帝国)から日本が古代国家として独立する歴史過程の叙述が斬新で説得的だったのである。その評価は現在でも変わらない。思想としての漢字文化を様式受容しつつ換骨奪胎し、時間をかけて仮名開発に成功、文化的独立を達成する問題への着眼は、西尾幹ニの方法的オリジナルではなく、他の研究者の所論を自説の如く展開しただけだったようだが、何れにせよインパクトのある議論であり、今後、さらにこの視角で研究分析が深められて行くことと思われる。



b0018539_15465721.jpg西尾幹ニの『国民の歴史』を全体として説得的と認めるかどうかは、読者個々の政治的立場によって大きく分かれるに違いない。が、現在のアカデミーの主流である網野史学と比較したとき、西尾幹ニの『国民の歴史』がナショナリズムの歴史認識であることは明らかである。民族の物語として歴史を捉えている。歴史は民族の誕生から進化発展を説明し自己了解する知識であり学問であると考えていて、それは国民の歴史として描かれるのが当然であると確信している。この観点と方法は脱構築主義の網野史学とは根本的に立地を異にするものであり、両者は歴史学の方法において真っ向から対立することになる。網野史学の基本視角は脱国民であり、歴史認識からナショナリズムを解体排除することこそが網野史学の目的であるとさえ言ってよいだろう。その方法的主張が纏まった形で表現されているのが講談社『日本の歴史』シリーズ全ニ六巻の冒頭に置かれた『日本とは阿か』であり、岩波新書『日本社会の歴史(上)(中)(下)』はその脱国民脱国家の方法視角が通史に適用された作品である。

b0018539_15474712.jpg網野善彦の歴史認識の方法は一貫していて、一言で言えば日本史を「日本列島の社会史」として捉える見方である。日本国の歴史ではなく日本列島の歴史。国民として生き死んだ日本人の歴史ではなく、この列島の諸地域に生まれ暮らして人生を送った人々の生活の歴史、その総体としての日本史、それが網野史学である。人間の歴史を権力による意味づけから解放して、個々の生活者の総体である社会が流れ変遷する過程を追跡する方法。地域の個性と差異にどこまでも敏感かつ内在的で、人間の多様性と混在性と流動性に意義を見出して説明する歴史学。別の言葉で言えば人にやさしい歴史学。庶民の姿が最前面に登場して終始一貫する歴史学。この脱近代知の歴史学が現在のアカデミーの主流であることは、こうして網野史学の方法的性格を言葉にして並べるだけでよく分かるし、誰でもその歴史学の姿勢に共感するだろうし、現代という時代に適した学問として積極的に意味を認めようとするに違いない。事実としてはそうである。網野史学は権威であり、その説得力は揺らぎない地位を占めている。

b0018539_15472466.jpgしかし、私は実は網野史学に魅力と興奮を感じられない一人である。アカデミーの権威である網野史学に内在し養分を摂取しようとして、それをよく果たせない。網野史学は無機質的なのであり、もっと言うなら感動の要素がないのである。物語の否定、国民の否定、国家の否定、そのメッセージは明確なのだが、メッセージだけが明確に伝わり、研究の産物である歴史の全体像について満足を抱けない。そもそも物語的歴史観を否定して従来の日本史像を解体することが学問の目的なのだから、歴史像のリプレイスを要求する方が間違っているのだろうが、物語が背後に退いた歴史からは感動の契機が失われるのである。網野史学は歴史に感動を求めてはいけないと言っているようであり、歴史に感情移入する主人公を探してはいけないと言っているようである。そうした歴史学の方法に対して、懼く、現在の一般人の半数は賛成するのだろうし、そうした多数の人間(左派が多い)は、学問だけでなく仕事に対しても何に対しても、物語や感動というものに最初から冷笑的な態度で関係しているように思われる。

b0018539_1610234.jpg西尾幹ニら右翼「つくる会」のナショナリズムの説得力は実はそこを衝いているのだろう。脱構築派(ポストモダン)が歴史学から剥落させた主体的感動のモメントを復活させ、主体が自らを物語の主人公視する意義を積極的に認め、日本書紀が説き語る天孫降臨神話をそのまま日本人の正統的原点として神聖定置する歴史観。かくして戦後民主主義のマイルドな国民主義の歴史認識は、八○年代以降の時代の推移の中でニつに両極分解するに至った。一つは脱構築派による「日本列島の社会史」の方向、もう一つは右翼国家主義による皇国史観への回帰。どちらも戦後民主主義 - その思想的根幹をなしたのは近代主義とマルクス主義の折衷 - が媒介した国民主義の思想の否定形である。一方はそのマイルドな国民主義を否定して主体を国家から解離させる方向を提示し、もう一方はマイルドな国民主義を揚棄してラディカルな国家主義に回帰する路線こそ本来的選択であると説く。両極分解を遂げた左右二つの歴史認識が現在の日本で説得力を競い合っている。ひとまずそのように図式化することが可能だろう。
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by thessalonike | 2005-06-17 23:30 | 歴史認識 (7)   INDEX  
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