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歴史認識と自己認識 - ブリッジとしての司馬遼太郎
b0018539_14575721.jpg歴史教科書におけるナショナリズムの問題について考えつつ、それと密接に関連する問題として、歴史とは物語なのかどうかという議論に関心が向いて行く。歴史という知識や学問における物語性と科学性という問題をどのように整理して、納得的な暫定解を置けばよいのかという課題に逢着して、それを簡単に回避できない気分になるのである。歴史認識には物語と科学の二つの矛盾する要素が存在する。虚構と真実の問題と考えてもよいかも知れない。結論を急ぐ必要はないのだが、現在の歴史学が提供しているテキストが、過去の事実を全て間違いなく再現し構成した無謬のものだと考えるのは、あまりに早計で幼稚な知的態度であると言えるだろう。史料は新発見されるものであり、再発見されるものである。史料批判こそが歴史学であり、史料の価値と評価は時代によって変動する。同じ史料の意味づけが変わることで歴史認識が変わる。そして史料の意味転換を媒介するのは、多くの場合、時代の政治を反映した歴史学者の視角転換による。



b0018539_14585684.jpgたった一つしか存在しないはずの過去の歴史的事実、その過去の歴史的諸事実の総体であるべき歴史認識、それが変わるからこそ、むしろそこに学問と思惟の自由があり、客観的合理性と論理的妥当性の競争という科学の本分が貫徹されることになる。逆に、単一の歴史認識が「科学」の名において普遍的で不動のものとして固定化され教条化されるとき、その歴史認識と歴史認識を媒介導出した思考様式のイデオロギー性と非科学性が露になるのではなかったか。科学を看板にする歴史学の説得力を単に看板の宣伝文句だけで無条件に信用してはならないこと、このことをわれわれは体験において承知している。歴史認識とはどこまで行っても自己認識であり、それ以外のものではあり得ない。対象化されるのは自然ではなく自己である。そして自己が自己を客観的に対象化しようとするとき、その客観性と合理性を保証するメジャーメントは、そのときの主体の置かれた条件によって異なり、自画像の正確さは基準の変動で動くのである。

b0018539_14591657.jpg正しい自画像、正確な自己認識は常に移ろい揺れ動く。皇国史観の自己認識は六十年前の日本人にとって絶対的で無謬のものであり、記紀神話がどれほど非科学的な内容を含んでいても、誰もその歴史認識の正当性に異を唱える者はいなかった。そして日本は古来より尚武の国であり、八紘一宇の使命を世界に実現する選ばれた民族であった。敗戦と同時にそれらは虚構の神話として一挙に否定され、日本人は古より戦争を好まない平和主義の民族だという自己認識に一転し、技術と努力、平和外交と創意工夫で豊かな社会を築き上げる民族という自意識で戦後の歴史認識の基調が統一された。戦後の歴史学は戦前の皇国史観に対して科学の名において説得力の優越性を主張し確保したが、戦後歴史学が描出した日本人の自画像もまた、ある種の虚構をビルトインさせた歴史認識であり、平和主義的な物語をサポートする事実や素材が積極的にクローズアップされ(遣唐使)、それとは逆の性格の歴史にはマスクが処理されたのである(征韓論)。

b0018539_15009.jpg戦後史学の説得力は、科学の名において正当性を主張していたイデオロギーの敗北によって一気に足場を失い、社会科学の概念や制度そのものへの懐疑と批判を喚起し、そして歴史は科学ではなく物語なのだとするアンチテーゼが勢いを得、その延長線上に皇国史観が息を吹き返す事態が現出する。政治が観念の変容を媒介し、変容した観念が政治の変化をさらに加速させ、両方の動きが相乗されて時代が大きく変わって行き、時代の変化に影響された個人が(意識的無意識的に)自らの歴史認識を変えてゆく。歴史学にせよ、歴史研究にせよ、歴史認識にせよ、それに関わり携わる者の前には物語と科学の両方の要素がある。虚構と真実のバランスの問題がある。歴史は統一的で安定的な自画像を与えなくてはならず、自画像は自己が納得できる一体的なものである。それは分裂的であってはならず、また過剰に自己否定的であってもいけない。太宰治の『人間失格』に登場するような自己認識では多数が支持するものにはならない。

b0018539_1502785.jpgバランスの問題である以上、後は個々の知性によるアナログ上の選択と判断ということになる。司馬遼太郎の歴史認識(司馬史観)は、すなわちその絶妙のバランスで戦後日本人に一つの自己認識を提示したものであり、それはまさに画期的な社会科学的提案であった。それは簡単に言えば皇国史観と戦後史学の中間的妥協の自己認識である。司馬遼太郎が日本人の中で圧倒的な支持を獲得し始めたのは、ソ連中国の社会主義の失敗が明らかなものとなり、国内で左翼勢力が後退し始めた一九七○年代末からだった。現在、右傾化の極みに達した日本の政治世論は、四半世紀の歳月をかけての大きな思想的転向の終着点であり、個々が左から右に転じるにおいては司馬遼太郎の橋を二十年間かけて渡り歩いている。司馬史観は妥協的中間点であるがゆえにまさにブリッジであり、右翼国家主義は最初に司馬史観を標榜し、そのブランドと説得力を徹底的に利用したのである。死人に口なし。日本の不幸は司馬遼太郎が96年に急逝した不運に尽きる。
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by thessalonike | 2005-06-20 23:30 | 歴史認識 (7)   INDEX  
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