韓国映画『スカーレット・レター』(2) - ラブシーンの映像表現
b0018539_1375163.jpg『スカーレット・レター』はイ・ウンジュの裸体の露出だけが売り物の低級な映画だったが、イ・ウンジュのエロスを作品のキーのコンテンツにするのなら、もう少し感動的で説得的な映像の製作を工夫して欲しかった。率直な感想を言えば、この監督は男と女の愛についてイマジネーションが貧困で、性を表現する知性に乏しく、アイディアを持っていない。ラブシーンがメインの映画なのだから、監督(ピョン・ヒョク)はそこで表現のアイディアを出さなくてはいけない。二人の会話の言葉にせよ、セックスに至るプロセスの演出にせよ、結ばれる体位やカメラワークにせよ、何をどう観客に見せるのか、見せたいのかというラブシーンのコンセプトがなければならない。この映画にはそれがなく、配慮されていたのはイ・ウンジュのスレンダーな肢体をどうやって胸と局部を隠してカメラに収めるかという工夫ばかりだった。イ・ウンジュの細い脚やくびれた腰の線は見事に映像になったが、主人公の二人が愛し合ったという確信はよく持てない。



b0018539_1381144.jpgセックスのシーンがあるから無理やり絡み合っている感じであり、二人が身も心も愛し合っているようには見えず、見る側にも感動が少なくて深い印象が残らないのである。ラブシーンについての意識や概念がスタッフの中で弱く、イ・ウンジュのベッドシーンが撮れたからそれでいいやというところで済ましている。イ・ウンジュ自身もそれほど積極的でない様子が窺えるし、特に相手役のハン・ソッキュの方は明らかに腰が引けていて、申し訳なさそうに場面作りに参加している。ハン・ソッキュは韓国映画界きってのベテラン俳優で大物スターなのだが、何となくラブシーンが苦手であるように見える。きっと私生活も真面目なのだろうし、男優の演技としてはあれで十分という解釈と理解があるのだろう。過去の男優でラブシーンが上手というイメージがあるのはアラン・ドロンだが、彼の映画には必ずラブシーンがあり、その場面は怪しくエロティックで、女の観客には情欲と興奮を掻き立てさせ、男の観客には羨望と嫉妬を催させていた。

b0018539_1382869.jpgこの映画の唯一のセールスポイントはイ・ウンジュのラブシーンなのだから、本当なら監督は撮影の前にイ・ウンジュとラブシーンについて打ち合わせをして、そこで自分のアイディアとプランを説明し、双方が納得し合意した上で映像作りに挑戦するべきだったのだ。そしてイ・ウンジュは、それが嫌なら嫌だと明確に拒否すべきだったし、監督は完璧な映像作りのためにイ・ウンジュを口説き落とすべきだった。そういう相互理解があった上でラブシーンが撮影されていれば、あのような中途半端な印象の映像にはならなかったのではないか。出来上がったラブシーンは双方が妥協したものになっていて、衒いや迷いがセックスする場面の演技の中に入り込んでいる。ピョン監督もハン・ソッキュもリードを取っていない。例えば日本の映画でこういうラブシーンが企画された場合、結果的にいい映像になるかどうかは別にして、場数を踏んだ男優である緒方拳にリードを任せて濡れ場の映像を作ったりする。監督が熟練男優にリードを任せる。

b0018539_1385337.jpgが、自分の映像作りに拘る映画監督の場合は、ラブシーンについても自分で見せたい映像を撮りたいから、強引に俳優の演技に割り込んで行く。その極端な例が深作欣二で、作品に起用した女優と屡々深い関係に陥った。女優を自分のものにしたいという欲望も強かったのだろうが、それに加えて女優の官能演技を自分の手で引き出そうとした表現上の動機も少なからずあるだろう。女優は監督の頭の中にある官能表現を演技で再現して映像を作らなければならないわけで、そういう立場の女優と監督である場合、演技の指導や説得が禁断の一線を越えることは状況として十分考えられる。それは男優と女優の関係でも同じだろう。松坂慶子と深作欣二はそのようになった。もう一つの極端な例は大島渚で、完全に自然なラブシーンの映像を撮るべく追及して、挑戦は遂に『愛のコリーダ』の極致にまで至っている。常識で考えれば異常で倒錯した映像作りだが、それだけ情交場面に拘って表現者の執念を燃やした結果ではある。

b0018539_1392038.jpg映画のラブシーンにおいて女優はあくまで素材の一つに過ぎず、そして本当に印象的な映像は監督が最初に準備していなければならず、監督のコンセプトに従って男優と女優が絡み合わなければならない。監督と女優と男優、この三者が納得して一つの映像をイメージできたとき、はじめていいラブシーンが出来上がる。大抵の場合はそこが曖昧にされて、それ以前の、女優の身体のどこまで見せるとか見せないとかのアートとは無関係な契約条件への配慮が撮影現場を支配して、したがって出来上がった作品においても、ここまで見せたとか見せてないとかの話題で大衆を擽って客寄せする商業映画になってしまうのである。ラブシーンというのは難しい。これまでの韓国映画を見たかぎりでは、裸を見せる男女の肉体の条件ばかりが意識されているように見える。描き方が機械的でプレーンであり、淡白で濃密さがない。セックスはもっと内面的なものであり、内面的な要素が映像に表現されなければ観客は興奮と感動を覚えられないのである。

b0018539_1393746.jpg

[PR]
by thessalonike | 2005-06-27 23:04   INDEX  
<< 現代版「慶安の御触書」としての... Indexに戻る イ・ウンジュの遺作『スカーレッ... >>