マニフェスト論への審察 - 選択行動の真実と「政策」の概念操作
b0018539_1158158.jpg一昨日、24日夜の『ニュース23』に北川正恭が生出演して筑紫哲也とマニフェストの話をしていた。その場で北川正恭も誉めていたが、議論の前に流された下村健一のショートクリップの出来がよく、他の報道番組のマニフェスト報道とは一味も二味も違う内容の濃い報道になっていた。北川正恭のマニフェスト論は一般論として分かりやすいし、よく納得できるものである。中心的なメッセージは二つあった。第一に有権者が政党のマニフェストを評価するにあたっては、今回の選挙で上げられた公約リストを評価するのではなく、まず前回のマニフェストが公約どおりに実行されたかを確認し採点することが先決であるということ。そして第二に、本来のマニフェストは、現在のような単に公約をカタログ的に羅列する形式ではなく、最初にどういう国を目指すかというビジョンがあって、そのビジョンに従って実行する政策に重要度と優先度がつけられ、個別政策の公約に期限と数値目標が付加されなければならないという主張である。



b0018539_1158116.jpg二つとも尤もな議論だ。第一の点に関しては、他の報道番組は、『報道ステーション』も含めて意図的にそれをやっていない。前回の選挙公約を政党が守っているかどうかを監視し採点するのは第四の権力であるマスコミの仕事である。マスコミ報道が有権者である視聴者に代わってそれをやらなくてはいけない。けれどもマスコミはそれをせず、視聴者の目を無理やり現在の選挙マニフェストに向けさせ、御用学者を動員して、それが恰もきわめて重要な情報であるかの如く解説し、そして結果的に自民党と民主党の二つの政党のマニフェストの相違だけに意義と争点があるかのような演出と誘導をしている。先週は刺客芝居一色、今週はマニフェスト比較で報道を埋めながら、前回のマニフェストについて議論を提起した報道は筑紫哲也の『ニュース23』だけだった。本日26日、NPOを含めた諸団体が過去の公約履行の査定も含めてマニフェストの評価を公表すると言う。問題は報道がそれをどこまで取り上げるかだ。

b0018539_11582784.jpg北川正恭の二番目の主張も正論である。北川正恭のマニフェスト・エバンジェリズムは、選挙報道を刺客芝居のワイドショーで埋め、郵政民営化のシングルイシュー・ポリティックスで選挙を突破しようと世論工作していた小泉自民党とマスコミに冷や水を浴びせ、有権者に政策本位の選挙を考え直させる上で有効な影響を与えている。この点で北川正恭は立派な役割を果たした。本当は政権公約はビジョンから先に説明されるべきで、そして政策プロパーは構想を実現するパーツとして構造的立体的に説明されるべきなのだが、現行のマニフェストがそうなっていないのは、政党の側の問題もあるけれども、それ以上にマスコミが公約をリストにして並べて単純比較する慣行がある点が理由として大きい。横に政党名、縦に政策項目のマトリックスを取って、表にして政策の言葉を並べて単純比較する報道手法をマスコミがやり続けるから、政党がその様式から逃れられないのである。政党がマスコミに合わせて材料提供しているのだ。

b0018539_11583955.jpg北川正恭のマニフェスト論の二つの主張に賛同しながら、さらに私が言いたいのは、有権者が選挙で政党を選ぶ動機や理由は、単にマニフェストの紙の上に羅列された微細かつ曖昧な公約リストのカタログ情報だけではないということだ。こういうマニフェスト論やマニフェスト選挙論で選挙行動を一般的に概念化してしまうと、例えば、創価学会が公明党に流し込んでいる八百万票という巨大な投票の現実が全く政治学的意味を失う。捨象されてしまう。彼らはマニフェストの細かな文字や数字を見て一票を入れているわけではない。即ち、世界観や主義主張、政治的な好悪の感情なども、実は有権者の一票を決定づけているきわめて重要な要素であり、実際には各個人の各政党への選択は、マニフェストのカタログ比較などではなく、政党に対する観念や表象がベースにあって、その価値判断に基づいて大きく判断され、マニフェストに並べられた情報は単に二次的副次的な追加要素であるに過ぎない場合が殆どなのだ。

b0018539_11585396.jpgマスコミで横溢しているマニフェスト論は、実はこれもある政治目的を持った観念誘導である。自民党と民主党の二大政党制を宣伝するプロパガンダであり、二大政党以外は無意味で無価値な存在であるから投票するなと呼びかけているということである。現実には主義主張、イデオロギーを問題にして有権者は政治を選択している。共産党が嫌いだからという理由で自民党に一票入れている人は何百万人もいる。個別の政策以上に「反共」のイデオロギーを基準にして投票行動している有権者は実際には何百万人といるはずだ。創価学会が嫌いだから民主党を選んだという人間も何百万人もいるはずだ。だが、マスコミはいかにもそんな判断をしている人間はいないように言い、イデオロギー的な政治争点を無意味で時代錯誤であるように現実を説明する。有権者の全てが政党のマニフェストをプリンタで印刷して比較、精査、吟味しているように言い、それが当然だと言う。そして結果として少数政党に票が集まらないように状況を誘導する。

b0018539_1159275.jpgが、よく考えてみるべきだが、北川正恭が言っているマニフェスト論の第二の主張、つまりどういう国をめざすかというビジョンの問題は、実は各党のイデオロギーや政治哲学と密接不可分の問題ではないのか。哲学なくして構想や政策があるのか。自民党の今後の政策は新自由主義のイデオロギーに基礎づけられたものではないのか。憲法改正や教育基本法改正の政策は、まさにイデオロギーの問題ではないのか。マスコミがやっているのは、実は「政策」という言葉の概念操作である。プラスシンボルである「政策」という言葉を縦横に利用し、意味を入れ替え、イデオロギーをイデオロギーではなく政策だと言いくるめ、政策であるものをイデオロギーだと決めつけて、大衆の政治心理を操縦しているのだ。簡単に言えば、少数政党である共産党や社民党の訴える政策は、どれほど政策として正論であっても、そこにイデオロギーの貼札を貼リ付けて貶価するのである。本当はギラギラしたイデオロギーの塊である新自由主義の政策は、イデオロギーではなく政策であるとクレンジングされるのである。「政策」の言葉が都合よく操られているのだ。
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by thessalonike | 2005-08-26 23:30 | 郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)   INDEX  
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