同じ範疇が存続しながら意味転換を惹き起こす問題に注目し、それを思想史の方法としてカール・マンハイムから摂取して、実際に日本政治思想史の分析に適用したのは丸山真男であった。同じ言葉が別の政治勢力によって担われ、時代の流れの中で全く逆の意味と目的を持って社会を変える動力となる。政治をヨリ深く観察する者は、この意味転換の問題に注目せざるを得ない。四十年前は社会主義者の陣営の言葉であった「構造改革」が、現在は新自由主義の政策に変わっている。ひとまずその事実を確認しておくが、意味転換が起きる四十年の間には一つの重要なブリッジがあって、それは1980年代半ばの日米構造協議である。二十年前、対日貿易赤字の拡大に苦しむ米国が日本への市場参入のためにストラクチャーのリフォームを迫った。今日の構造改革はここに端を発している。具体的には規制緩和という言葉で代表される改革が迫られていた。ここから意味変容が始まった。現在でも米国の資本や政権や新聞にとっては、日本の構造とか改革とかの言葉の意味はこの当時から変動していない。それは日本の産業と文化の価値標準を米国にアジャストさせることであった。
日本は特殊で歪曲しているという観念、日本を米国の標準に合わせて矯正し改造なければならないという思想を日本人に内面化することである。貿易赤字の削減については二十年間で目立った成果は上がらなかったが、日本人の内面の改造は完全に成功して、日本人は米国を唯一標準の絶対神と崇めるようになり、政治も軍事も金融も産業も全て米国に従属することとなった。牛肉・オレンジの自由化の頃はまだ可愛いものだったが、いつの間にか長銀を10億円でリップルウッドに叩き売って当然という異常な事態となり、遂には郵貯簡保の金融資産を
売り渡すところまで発展した。米国による対日構造協議政策というのは、実質的には日本経済を米国の植民地に変える植民地化政策そのものだったと言ってよいだろうが、それを日本が受け入れたのは、単に貿易黒字が嵩んで米国との関係を悪化させたくないという動機が働いただけでなく、それ以外にも幾つかの社会心理的要素があった。新自由主義のイデオロギーと米国化の政策が日本人に受け入れられた思想的背景には二つの重大な歴史的事実がある。一つは日本のバブル崩壊であり、もう一つは冷戦の終結である。
その二つは日本人の中で重なった表象として反省的に観念されている。つまり、日本の経済が破綻したのは、その経済運営が社会主義的な原理に基づく官僚主導のものであったからであるという認識である。バブル崩壊とその後の経済不況をソ連社会主義の崩壊に投影して観念しているのである。社会主義でやってきたからソ連も日本も失敗した。官僚主導の平等志向経済だから失敗した。市場原理が弱かったから失敗した。そういう認識だ。そして新自由主義で経済を復活させ、超大国として世界を制圧支配している米国の現実がある。日本人が小泉首相の浅薄な改革パフォーマンスに喚声を上げる現象の土台には、こういう大きな現代史とその思想的背景がある。四十年前も構造改革はバラ色の未来を提示するプラスシンボルの言葉だった。プラスシンボルのまま、中身が変わっても言葉が流通され受容されているのである。現在の構造改革の政策推進の前衛に立っているのは竹中平蔵と慶応経済
フリーメ
ーソンだが、観念操作を巧妙にやっているのは実は東大出の官僚(アドミニ)たちである。学生の頃は
構造改革論に傾倒し、役所に入ってからはケインズで仕事してきた連中だ。
彼らが今、ケインズ主義から新自由主義に転向しつつあり、その転向を「構造改革」の言葉で自己欺瞞して自己正当化しているのである。自分が若い頃から作ってきた福祉制度を今度は破壊し始めたのだが、「構造改革」の言葉はそれを許してくれるのだ。現在の「小泉改革」への国民の狂信的な支持の裏側には、国の予算を私物化して貪り食ってきた
官僚に対する国民の憎悪の意識がある。
官僚への敵意こそがこの選挙での小泉人気の実体だ。だからこそ小泉首相は、その国民の
官僚への憎悪と敵意を煽るべく、わざと乱暴で強引な態度をテレビで示威し、支持を糾合しているのである。破壊者として革命者として自己を演出しているのだ。官僚機構を破壊するリーダー像を粗暴な素振りで示して演出しているのであり、これは電通が指導したものだろう。大衆が没落しかかってデスペレートになっている今は、むしろ狂暴なイメージの方が受けるという計算があるのだ。そしてそれは正解だ。日本の大衆のフラストレーションは破裂寸前のところにきている。その憎悪は国民の税金を私物化して遊び呆けてきた官僚貴族たちに向けられ、そして社会主義という悪魔の言葉に集約されている。
新自由主義の過激な暴力主義と破壊主義がウケているのである。それが荒んだ内面によく響くのだ。格差社会とは弱い者いじめをする社会である。日常的に国民の誰もが自分より弱い立場の人間を苛める社会だから、総理大臣も弱い者いじめを平然とするリーダーシップでなくてはいけない。実際には新自由主義と官僚とは
癒着している。官僚機構には手を出さない。が、自分の保身しか見えなくなった官僚は、新自由主義の言うがままに米資に日本の資産を売り、防衛費で法外な値段の米国製武器を買う。権力を握った新自由主義は日本を米国に変え、日本を壮絶な格差社会大国に変えきって満足を見る。原理主義者のカタルシスを得る。国民の官僚への憎悪には理がある。日本の官僚の腐敗と堕落には本当に呆れる。中央官庁の役人だけではない。朝日新聞の記者もそうだし、国立大学の教官もそうである。仕事をまともにしていない。朝日新聞のコラムは半分が自分の趣味の自慢話になっている。地方や海外に出張して飲み食いした話を嬉しそうに開陳している。国立大学の教授が作っているHPもそうだ。特権者の極楽トンボの遊興話ばかりだ。そしてそのように庶民の前で気儘に(税金で)放蕩を続ける官僚の態度に、社会主義というレッテルがきれいに填まるのだ。