仏映画『ピアニスト』(4) - 精神分析とエロティシズムの間
b0018539_17291741.jpgセックスはどこまでもどこまでも個人的なものである。性はそもそも、性の置かれた環境と状況が隠微で反社会的であればあるほど、その愉楽と興奮を内部に増幅させる性格を自然に持っている。性は日陰を好み日向を好まない。性は公然と社会的に定義されることを嫌い、外側からの視線を遮蔽した個人の裡に意味と祝福を隠し持つ。性は「鉄の檻」の牢獄に繋がれた現代人が、ほんの一時自然に還り、精神の均衡を回復する救済のオポチュニティであり、その時間と空間は何よりも貴重で神聖なものである。現代人は、飲み、食い、憩い、寝て、生命を再生産し、鉄の檻の中で生き抜くが、その中で性の占める意味はどこまでも重要で、疎かにできないものだ。現代人は都市空間のどこかに自分の性の隠し場所を確保する。エリカのポルノビデオ屋のような、自分の性の隠れ場所をひそかに確保して立ち寄りを続ける。



b0018539_17395739.jpgそういう隠微なスペースをどう名付ければよいか。精神分析や社会学の専門家が言葉を与えるだろう。私は無理にエリカの倒錯的性行動を正当化しようという意図はないが、要するに言いたいことは、似たようなことは現代人なら誰でもやっているのではないかということであり、またそのプライベートな性秘事の中にこそ、その人間の個性があるということだ。性は個人にとって本来きわめて重要なものでありながら、それを公開公言することのできないものである。例えば履歴書や職場の自己紹介文の中に「趣味」を書く欄があるが、そこに自分の性趣味を記入することはできない。どれほど豊穣な性趣味の世界を構築保有する者でも、それを公開すれば、直ちに精神異常者の烙印を押されて社会的生命を喪失する。当然の話だろう。

b0018539_17313643.jpgそれは社会的には無意味なものなのだ。プライバシーという容器の中に納まるものである。ただ、ここでふと「ものの豊かさより心の豊かさ」などと言う場合の「心の豊かさ」とは何だろうと考えたとき、個人で異なる「心の豊かさ」が、何かしらそういうプライバシー的なものと深い関係を持つものではないかという予感は自然に抱く。簡単に言えば、より大きなプライバシー(私生活)の時間と空間を持つことが、生き方としての「心の豊かさ」ではないかという予想である。人は無意識的に自己の私生活を拡大しようとして生きている。個人の生の拡大は、単に富や名誉の拡大だけでなく、まさに私生活の拡大にこそあるのだ。富と名誉の拡大は社会的にしかできない。だが人は、それとは裏腹の関係にある私生活空間の拡大の衝動を抑えることができない。

b0018539_17503881.jpg私生活と言うとき、その中心に存在するのはまさに性生活そのものだろう。それは(例として同性愛がそうであるように)人には説明できないものであり、基本的に納得と共感を得られないものである。死ぬまで自分だけが意味を確認できるものだ。エリカは駐車場の車の中で性行為している男女を見て性的興奮を起こし、放尿することで射精の代替の性的快楽を得ている。一見して異常な世界だが、よく考えれば、この場合の「覗き行為」も、犯罪としての法的構成要件を充当せしめているかどうかは疑わしい。非常識な行為ではあるが、屋外に駐車した車の中で行為に及んでいる男女にもその責任の半分は問われるだろう。前回と今回の二回の批評で、ポルノビデオ屋での性行動と駐車場での覗き行為の二つについて、敢えてエリカに内在して意味を考えてみた。

b0018539_18374555.jpg倒錯あるいは異常の一言で片付けるべきものを意味化する考察を加えたわけだ。何度も繰り返すが、そうした見方ができるのも、可憐なイザベル・ユペールの迫真の演技があって初めて可能なのであり、原作者であるイエリネク本人の写真を想像しながらでは、それは不気味なグロにしかならず、共感へのアプローチは途絶される。問題提起として理解はできても共感はできない。ユペールのセクシーな肢体と演技があって、初めてそれを内在的に考えてみようという前向きな気分が起きる。『ピアニスト』はエロティシズムの映画ではなく、サイコアナリシスをテーマとした映画である。エロスを期待した観客はハネケ監督に手酷い目に遭わされる。だが、ユペールが観客のエロティシズム期待と監督のサイコアナリシス哲学の間に立って両者を微妙なバランスで繋ぎ止めてくれるのだ。イザベル・ユペール万歳。
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by thessalonike | 2004-10-14 23:52 | 『ピアニスト』 (4)   INDEX  
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