世に倦む日日
2008-03-03T21:13:57+09:00
thessalonike
本と映画と政治の批評
Excite Blog
引越しのおしらせ
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2005-09-23T23:30:00+09:00
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2005-09-22T00:17:34+09:00
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未分類
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報告と御礼 - 学研「最新人気ブログランキング200」に載りました
http://critic.exblog.jp/3482302/
2005-09-22T23:30:00+09:00
2006-04-14T21:38:08+09:00
2005-09-17T12:29:04+09:00
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プロフィール ・ その他
昨日発売になった学研『最新人気ブログランキング200』を確認すると、「世に倦む日日」は「ジャーナリズム・評論・専門分野」の中で第3位に位置づけられて紹介されていた。意外な高順位の評価に驚いたが、私からすれば、この事実はムックの編集者や選考者の知性の確実さを証明するものでもある。当ブログをご推薦を下さった関係者の皆様にあらためて御礼申し上げると同時に、平素よりご愛顧を賜っている読者の皆様にこの場を借りて深く深く感謝を申し上げたい。選考が客観的に適正なものだったということは、ランクされている200のブログがそれなりに中身と価値を持っていることをも意味するだろう。本は書店のかなり目立つ売り場に並べられている。これからブログでの情報発信を企画されている方は、ムックを手に取って参考にされることをお勧めしたい。これから間違いなくブログは普及拡大する。文化としてビジネスとして多様な形態で発展を遂げるだろう。日本におけるブログ文化の発展に多少とも貢献できれば幸いと心得る。 長渕剛の名曲『狼たちの遠吠え』のラストに、「そして人は名もなき小さな花咲かせる」という印象的な歌詞がある。私の「小さな花」はこのブログなのだろうか。であれば、人生が終わるまではまだ少しの時間があり、この小さな花をもう少し大きく花開かせて散りたい。谷間の日陰にひっそりと咲く「世に倦む日日」に光が射たったのは、今回の総選挙の政治の偶然による。郵政民営化問題をめぐってマスコミが「改革ファシズム」の権力拠点となり、国内世論のどこにも反対論が消えてしまったために、反対論の実在を求めてネットの海を彷徨した人たちが、谷間のブログを見つけてくれたのである。理性と良識のある市民がブログを反小泉・郵政民営化反対の言論の拠点にしてくれたのだ。前にも述べたように、このマスコミの「ファシズム拠点化」は決して一過性のものではなく、小泉首相が権力を握って「改革」を続ける限り永久に続くものであり、したがってその意味で、小泉改革の欺瞞を暴露する言説はブログに拠って発信せざるを得ない。
8月下旬の公示日の前後から、ブログ右上のTB欄に「郵政民営化反対論」の人たちの意見が次々と立ち始め、それはまるで上田城の真田昌幸が孤軍奮闘して徳川の大軍を引き寄せているところに、千曲川の向こう岸から援軍の旗竿が一本、また一本と立つのを見るようであり、私は励まされ、勇気づけられ、自分の営みが無力でないことを思わされた。ブログの素晴らしさと武器としての強さを実感したのもこのときだった。振り返って、今度の選挙は本当に大きな政治的事件であり、私のイマジネーションでは、六十年安保の大騒動を小型版にしたものが今回の総選挙だったのではないかと思われる。六十年安保のときの挫折感は、あの西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』に歌われているが、ブログ周辺に漂う雰囲気は、サイズを小さくしたものであろうけれど、あの挫折感と敗北感の世界を思わせるものがある。われわれはきっと政治をやったのだろう。久しぶりのとか、生まれて初めての政治戦に、新しい武器を手にして偶然にも参加したのだ。
敗北はしたし、状況も将来も絶望的ではあるけれど、私には少しの満足感がある。人生は本当に何があるか分からない。いつ交通事故で命を落とすか分からず、いつ末期癌告知されるかも分からない。最期を覚悟したときに(自己満足でもいいから)何か達成感の証明や根拠の切れ端みたいなものを掴んでいたい。丸山真男の『三たび平和について』とか、『選択のとき』の真似事を、今回、自分が少しできたのだろうかと思うと、そんな事を想像すると、逆に胸が震えるような気分になる。丸山真男が偉大なのは、その研究業績が素晴らしかったからだけではない。学問(政治学と政治思想史)が世界に認められているからだけではない。それは違う。丸山真男が本当に偉大なのは、丸山真男が政治をやったからだ。戦後民主主義の指導者として、政治の前線に立ち、体を張って権力と戦ったからだ。日本の民主主義を守り発展させる政治戦に知識人として身を賭けたからだ。日本人に民主主義を教え、民主主義のために戦う勇気を与え続けたからだ。
アジテーションこそがいいのだ。丸山真男が世界の古典になるのは、『日本政治思想史研究』よりも『現代政治の思想と行動』の方である。政治学の古典になるのは、全てアジテーションの政治学である。マルクスの『共産党宣言』もそうだし、ルソーの『人間不平等起源論』もそうだし、シェイエスの『第三階級とは何か』もそうだし、ウェーバーの『職業としての政治』もそうだ。ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』もそうだ。暴露と覚醒、それがない政治学は官僚の政治学であって知識人の政治学ではない。構築よりも脱構築よりも暴露が先だ。「世に倦む日日」は暴露をやる。「小泉改革」の政治暴露とイデオロギー暴露をやる。そこで読者に直接に真価を問う。「なるほどそうだったのか」「それはたしかにあり得る」と膝を打たせることが目的である。無敵の「小泉政治」でも策を練れば必ず勝つことはできる。全野党共闘で結束して戦えばマスコミのファシズムに反撃することはできた。ネットをバトルフィールドに本拠化すれば、あんな不様な敗北はなかった。
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英国二大政党制の愚神礼賛 - 「政治改革」学者の誤謬と帰結
http://critic.exblog.jp/3503092/
2005-09-21T23:30:00+09:00
2006-03-04T09:27:08+09:00
2005-09-21T10:49:43+09:00
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郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
司馬先生がどこかで書いていて、感銘深く覚えていることだが、日本人は常に外国の政治に理想のモデルを求める性癖があるという指摘があった。そのとき司馬先生が冷めた視線を送っていたのは、日本の左翼知識人における盲目的なソ連信仰や中国信仰であったと思うが、それだけでなく、奈良朝の平城京パビリオン建設に象徴される唐律令制システムの無条件全面導入の歴史なども念頭にあったのではないかと思われる。日本人には確かにその傾向がある。文明は常に外にあるものと信じ、一生懸命に文物を輸入し翻訳し、外国で何か流行っているものを見つけると、それを神のように崇めて国内で流行らせようとする。司馬先生の言葉が私の中で説得的に響くのは、ソ連社会主義への愚神礼賛が終わっても、なお、この国の知識人たちは同じ事を繰り返しているからだ。モデルは外つ国にあり、そのモデルを一刻も早く日本にインプリメントしなければならぬと説く人間が勢いを持つ。論壇の主役で踊り、囃される。 ステージは変わり、論者は変わり、モデルは変わっても、そのパターンだけはいつも同じだ。今度の選挙でも、と言うか、最近の政治でも、テレビに出て来る政治学者が喋る口上は決まっていて、英国の二大政党制と小選挙区制選挙の話ばかりだ。英国の選挙区の候補は党中央が独断で決定して、地縁のある選挙区出身の人間は候補に立てないとか、ブレアの労働党が伸びたのは右の新自由主義に路線転換して保守票を取り込んだからだとか、政権党が169議席から2議席に激減したカナダの小選挙区制は素晴らしいとか、そんな話ばかりだ。司馬先生が生きておられたら、「そんなに英国の政治ってのはいいんですかね」と皮肉の一つも言うのではないか。右の学者から左の学者まで、政治学者がマスコミで垂れる能書きの全部が英国政治の礼賛ばかりじゃないか。朝から晩までサッチャーとブレアの話ばかりじゃないか。飽きるよ。他の国の政治の制度や経験は参考にならないのか。英国ばかりでいいのか。
私が「薩長同盟の政治」を論じたのは、それが小泉政治に対抗する全野党共闘や社共連合のイマジネーションにおいて有効な思考材料になるからという意味もあったのだけれど、それ以上に、日本人がいま大事な政治の選択や決断をするときに、やはり参考するものとして、日本人の政治の経験をそこに持ち出したかったからだ。日本人にもこんないい政治経験があり、我々の先祖はこのように政治をして、未来を、つまり我々が生きている現代を作り出してきたのだということを言いたかったからだ。日本人自身の政治経験の中に、我々が活用したり応用したりできる立派な政治のモデルがあるのだということを訴えたかったからだ。モデルは自分たちの歴史から拾い出せるはずだ。薩長同盟の政治も、天下三分の計の政治も、我々に大いなる政治変革のイマジネーションとインスピレーションを与えてくれる。日本の政治学はあまりに外ばかり見すぎ、最近は特に英国ばかりをモデルとして理想視しすぎている。日本は英国ではない。
私のこれまでの経験から言えば、社会状況が大きく違うという問題は別に置いて、日本の政党政治が溌剌として輝いていたのは1970年前後の時代だった。成田知巳、竹入義勝、不破哲三、佐々木良作。野党指導者たちの演説は情熱と迫力に溢れ、街頭演説であれ、テレビ討論であれ、見る者を釘付けにして離さなかった。主義主張は異なっていたが、その弁舌と闘志は聴く者の胸を熱くさせるものが確実にあった。政治に賭ける男の素晴らしさを存分に感じさせてくれていた。あのとき、政治は価値のある大事なものだと日本中の誰もが確信していて、政治に知識と関心を持っていて、家庭や地域や職場の日常で政治をよく論じ合っていて、投票率は当然のように70%を超えていた。野党の挑戦を迎え撃つ自民党の指導者にも、政治家としての大型の個性と思想があった。三木武夫、大平正芳、田中角栄、福田赳夫。そういう中選挙区制時代を覚えている人は、その頃と今の小選挙区時代の二大政党制とを較べて欲しい。
日本の民主主義にとってどっちが本当にいいのか。よかったのか。私は日本の民主主義にとっては中選挙区制の方がよく、そこに戻すべきだと思う。公明党には60議席から70議席を与えてよい。地域で地道に活動して支持者を増やし、実績を積み重ねている創価学会には、それに相応しい議席を直接に配分してよいではないか。共産党は現時点でも30議席、社民党には15議席が与えられるべきだ。マスコミが政治の主導権を握り、風を吹かせて二大政党の片方を大勝させてしまうようなシステムは間違っている。それは日本の民主主義をよくするものではなく、逆に民主主義を殺してファシズムに導くものだ。小選挙区制は日本の民主主義をバージョンアップさせると言った後房雄は、山口二郎の英国モデルと同じパターンで、イタリアの二大政党制と「オリーブの木」を愚神礼賛した。目の前にある前原民主党は、二人が礼賛したモデルとは似ても似つかぬように見えるのだが。バージョンアップところか、ストールして、ハードディスクが壊れてるぞ。
後房雄、君はイタリア産オリーブの輸入卸売業はやめたのか。オリーブの売り子はどうしたのだ。
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「政治改革」イデオローグの責任 - シンボルとイデオロギー
http://critic.exblog.jp/3497786/
2005-09-20T23:30:00+09:00
2007-10-05T07:30:00+09:00
2005-09-20T11:44:27+09:00
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郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
文句を言っていたら、山口二郎から直接メールが来た。前稿の最後に画像を貼った岩波新書『政治改革』では、自分は明確に小選挙区制には反対していたのだと反論している。さて、本当にそうかなと思って読み返したが、全体を通して小選挙区制に反対という主張には読めない。強いて言えば、「完全小選挙区制に反対」の意味での「小選挙区制に反対」だろう。新書では確かに小選挙区制の問題点を指摘してはいるけれど、山口二郎もまさか比例代表制だけに切り替えると考えていたはずはあるまい。併用制、すなわち現行制度への移行を念頭に置いて中選挙区制の廃止を主張していたはずである。本の中では中選挙区制はだめだから止めろと書いているし、自民党と社民勢力党派の二大政党制による政権交代こそがあるべき日本の「政治改革」の方向だと書いている。以前から不審に思っていることだが、この問題の岩波新書はこの十年間ほどずっと品切れを続けていて、一般読者が店頭で簡単に入手できなくなっている。何故なのだろうか。 本の文面からは、確かに山口二郎の「小選挙区制導入唱導」の証拠を押さえることはできない。だが、新書が発売された93年当時、山口二郎が内田健三の介添で久米宏の「ニュースステーション」に頻繁に出演して、「二大政党制による政権交代」をエンバンジェライズし、そのためには現行中選挙区の選挙制度を変えなければならない旨を言い、それが「政治改革」だと何度も強調していたことは覚えている。山口二郎は「政治改革」のブームに便乗してテレビで売り出した若い岩波文化人であり、そのプロモーションを全面的にサポートしたのが「政治改革」の大御所の内田健三だった。細川護煕が「政治改革新党」の立ち上げを発表したのが92年の5月。すぐに『ニュースステーション』に生出演して、そこから「政治改革」のエバンジェリズムが始まった。エバンジェリズムの先頭に立っていたのは内田健三で、内田健三と山口二郎の老若二人が「政治改革」イデオローグの代表格だったと言っていいだろう。佐々木毅はテレビには出なかった。
山口二郎については「政治改革」で出世して荒稼ぎした商売上手な政治学者という印象しかない。で、この印象は少なくない数の市民において共通のものではないかと思われる。結論から言えば、あのとき選挙制度を絶対に変えるべきではなかったし、中選挙区制を維持すべきだった。「政治改革」は嘘であり騙しである。まさに現在の「構造改革」と同じく大衆を騙して操作するシンボル装置だった。そんなものに乗っかればその先どこに連れて行かれるか、真面目に考えれば誰でも分かっていたことだ。「政治改革」の代名詞の政治家は小沢一郎である。小沢一郎が自民党実力者時代から「政治改革」を唱えていて、その中身は小選挙区制の導入だった。それは何のことはない、師匠の田中角栄の悲願(カクマンダー)の実現であり、何のために小選挙区制にするかと言うと、言わずと知れた日本を「普通の国」に変えるためだった。解説するまでもないが、小沢一郎の「普通の国」とは憲法9条を改正して戦争が普通にできるようになる国のことを言う。
その小沢一郎の「政治改革」に朝日新聞が乗ったのである。92年から93年頃の朝日新聞は小沢一郎を改革の旗手として絶賛する記事を書いていた。あの佐川急便事件にも疑惑(カネの受け渡し現場で灰皿持ってウロウロ)が取り沙汰された小沢一郎を「政治改革」の旗手として褒めそやかす朝日新聞が理解できなかったが、何十年も前から社公民路線を牽引して自民党と政権交代する大きな対抗勢力の結集に奮闘してきた朝日新聞が、これを機会に日本の選挙制度を中選挙区制から小選挙区制に転換する一大キャンペーンに着手奔走したのは明らかだった。内田健三の「ニュースステーション」でのプロパガンダもその一環をなす。これは何やら朝日新聞内部での権力闘争とも関連していた印象があり、事情はよく分からぬが、従来の朝日新聞の顔であり、小選挙区制の不当と中選挙区制の保守を言い続けた石川真澄が社を出て、早野透と星浩が論説権力の頂点に立った。下克上の観があった。小沢一郎を宣伝していたのは早野透だったのだろうか。
シンボルとしての「政治改革」の本質を了解していたのなら、政治学者はそれを正面から批判しなければならなかったのである。「政治改革」をイデオロギー暴露する知識人の立場にこそ立たなければならなかったのであり、ましてやそれを出世や商売の道具などにしてはならなかったのだ。大衆を騙して支配者(アドミニ)の思惑どおりに操作する任務を自覚した佐々木毅ならそれは許される。支配の側のイデオローグは仕事だから構わない。だが批判精神を期待される岩波文化人がそれをやってはいけないだろう。そもそも政治とは改革するものではない。「政治改革」という言葉そのものが欺瞞に満ちた虚偽意識の象徴言語ではないか。「政治」と「改革」の二つの語は一つに熟せしめるべきものではない。そのような概念の使用を安易にしてはならない。「政治改革」のシンボル操作の成功が今日の新自由主義の「構造改革」の操作の成功に繋がっている。「改革」の騙しが連綿と続いている。だから「政治改革学者」の責任はきわめて重い。とりわけ山口二郎と後房雄の二人の責任は重い。二人はまず自己批判すべきだ。
「改革」のシンボルを独占して新自由主義革命を遂行する小泉政権を倒すためには、「左派が対抗的な改革の理念を提案」すればよいのではない。そのような安直で浅薄な、官僚ペーパー的な軽っぽい対抗手段で状況を打開させられるわけがない。「小泉改革」の政治に勝てるはずがない。違う。君はわかっていない。マルクスが「資本論」を書いて示したように「改革論」を示さなくていけないのだ。「改革」をその根底からグリップして批判し、その由来と機能をあますところなく暴露するしかないのだ。マルクスのあと人々が「資本主義」の言葉で体制を批判視したように、「改革主義」の言葉で人々が「改革」を批判するようにしなければならないのだ。暴露によって解体するのだ。暴露によってイデオロギーの力を無力化するのだ。「改革」をプラスシンボルとして綱引きしようとする限り政治に敗北する。知識人が「改革論」を書いて「改革」を相対化すればよいのだ。「小泉改革」の犠牲になっている大衆が、「改革」の虚偽と欺瞞と詐術に目覚め、「改革」の呪縛と観念支配から脱するイデオロギーのブレイクスルーをプルーブすればよいのだ。
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新自由主義革命の最前衛へ - 前原誠司の改革競争と改憲競争
http://critic.exblog.jp/3492446/
2005-09-19T23:30:00+09:00
2006-03-04T09:27:52+09:00
2005-09-19T12:54:22+09:00
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郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
前原誠司が民主党の代表になって、選挙で負けたこの国の弱者たちは、さらに絶望の度を深くしているだろう。代表選に勝った前原誠司が、週末の政治番組で嬉しそうな顔をしながら宣言したことは、9条改正で党を一本に纏めるという公約であり、改革競争で自民党に負けないスピードとパフォーマンスを証明して見せるという決意だった。小泉政治の「改革」目標を小泉自民党よりも早く実現達成するから、もう一度支持を戻してくれと保守票に訴えているのである。「サンデープロジェクト」のスタジオに同席していた櫻井よし子は、「健全なご意見ですね」と破顔していた。民主党は自民党よりも一歩前へ出て、新自由主義革命の最前衛に立つから支援してくれと言っているのだが、総選挙までは4年もあり、参院選までも2年ある。国政選挙よりも先に1年後に民主党の代表選挙がある。前原誠司がそのまま代表を続けているかどうかは分からない。私から見れば、これは解散後に郵政民営化問題をめぐって岡田克也が犯した錯誤の拡大版であり、前原誠司の意に反して民主党はさらに支持率を下げるだろう。 ファッショ権力の拠点であるマスコミは、改革競争を宣言した前原民主党を絶賛している。翼賛政党化を歓迎しているのだ。前原誠司は政府の政策や法案に対しては必ず対案を出すと誓った。対案を出すということは反対をせずに翼賛するという意味だ。しかも従来のように消極的な翼賛ではなく積極的な翼賛をすると言うのである。具体的に言おうか。政府が郵政公社の民営化を2年後から着手して10年後に完全民営化する法案を再提出する。前原誠司は、それでは遅すぎるから2年後に即郵貯と簡保を全廃する対案を出す。政府がサラリーマン増税の07年度導入を国会に法案提出する。前原誠司は党内を一本化して、07年度では遅すぎるから06年度にすると対案を出す。政府が医療費の個人負担を4割に引き上げる法改正案を出す。前原誠司は、それでは改革が進まないから個人負担は5割に引き上げろと対案を出す。政府が08年度から消費税を10%に引き上げる税制改正案を国会提出する。前原誠司は、それでは財政再建にならず改革が進まないから、税率は20%にしろと対案を出す。
対案はマスコミに歓迎される。マスコミは歓迎するが、そうやって前原誠司が一生懸命「改革」の前進に貢献しても、2年後に参院選挙が始まった途端、三宅久之も岸井成格も田勢康弘も伊藤洋一も口を揃えて言うのだ。「政府案に基本賛成なら最初から黙って賛成票を入れときゃいいだろう」「対案のための対案なんか意味がない」「自民党の猿真似ばかりして政権を取る意欲が見えない」。かくて民主党は選挙に負け、前原誠司は新自由主義の革命指導者になりそこねた哀れな道化師として国民の記憶に残るに違いない。いずれにしても、小泉・竹中の新自由主義革命は、前原民主党という議会の援軍を得て、さらに権力を磐石化させ、過激な増税と福祉破壊の路線を推進することができる。自殺者の数は年間4万人を超えて5万人に近づくだろう。無職者となり、生活苦の果てに自殺に追い込まれている日本人の真実は、新自由主義者のゲシュタポに捕縛されて収容所でガス処刑されているユダヤ人と同じだ。国に殺されているのと同じだ。今、年収300万円で食い繋いでいる「負け組」は、明日はガス室の運命である。
新自由主義のファシズムは、マスコミと野党第一党を束の中に入れた。「改革ファシズム」は止められない。と同時に、前原誠司が民主党代表になったことで、今後半年間の論壇は憲法9条改正をさらにアクセラレートするだろう。改正反対論がまた一段と異端化され苦境に立つ。改憲反対を堂々と言いにくい言論環境になる。小宮悦子とか、三雲孝江とか、小倉智昭とか、森本毅郎とか、心情的には9条改正に慎重、少なくともこれまでは遠慮がちにも「不賛成」のニュアンスを標榜してきた良識的なマスコミ人が、目の前で粗暴な右翼論者が「改憲当然」を国論として吼えまくるのを制止できなくなる。素通りさせざるを得ず、それが世論の多数であるかのような報道になるのを抑止できなくなる。生放送で反対論をぶつけられなくなる。議会三分のニ勢力の与党と野党第一党が9条改正を迫っているときに、中立が建前の報道人が改正反対の態度を貫徹するのは相当な勇気が要る。筑紫哲也と鳥越俊太郎の二人だけになるのではないか。今回、郵政民営化問題で嶌信彦が転向した。これは衝撃的で大きな事件だった。
半年間、9条改正を煽りまくり、十分に世論の地ならしをした後で、来年の国会に教育基本法改正案を出す。前原誠司の民主党は対案の提出を迫られ、党内で議論も準備もしておらず、意見集約ができないものだから、代表の独断で教育勅語をそのまま対案にして提出してしまうだろう。それは悪い冗談にしても、尾道で堀江貴文が吐き捨てていた言葉が説得的に響く。「民主党はただ政権を取りたいだけなんですよ」。民主党は政権に涎を垂らしている動物だ。性欲の塊の男が必死で女を口説いているのと同じだ。何の理念もない。前原誠司に理念があるとすれば、その理念は竹中平蔵と全く同じだ。小林憲司の覚せい剤事件には驚いた。前代未聞。民主党は一体誰が議員になっているのか分からない。テレビに顔を出す軽っぽい若い半芸能人しか知らず、ああいう連中ばかりだろうと思っていた。今回、広島六区と岐阜一区と静岡七区の民主党候補を見て、その無能と凡庸に唖然としたが、まさか覚せい剤常用者まで議員で抱えていたとは。粗製濫造、没理念、剥き出しの権力欲。こういう政党が支持を得られるはずがない。
これが佐々木毅と山口二郎と後房雄の「政治改革」のなれの果ての姿だが、三人の政治学者様は何か言うことはないのか。「負け組」屠殺収容所のガス室に入る前に一言聞いておきたいのだが。
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愚直と不良 - 女性票を奪い取った小泉首相のセックスアピール
http://critic.exblog.jp/3477364/
2005-09-16T23:30:00+09:00
2006-03-04T09:28:17+09:00
2005-09-16T11:22:51+09:00
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郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
今日は週末。それらしくアダルトな政治学をトライしよう。小泉純一郎と小池百合子の二人の関係を怪しむ声は少なくない。むしろ怪しんで見る方が普通の感覚であって、二人の間に男女関係はないと無理に言い張る方が不自然に聞こえる。両方とも独身であり、いい男といい女の二人であり、職場恋愛で何かがあっても別に何もおかしくない。この場合、それが事実がどうかは問題ではない。そうではなく、政治戦術の問題として、明らかに小泉首相側は二人の関係の怪しい雰囲気を今回の選挙で演出して利用したはずなのだ。小池百合子もそれを承知で受けて、いかにも仲のいい「勝ち組」熟年ペアのイメージを演出して宣伝したと言えるのではないか。小泉純一郎63歳、小池百合子53歳。仕事も恋愛も充実した二人がいい感じで絵になる。それを偶然ではなく、意図的に、集票プロモーションの武器として積極的に訴求したように思われる。今回の選挙で小泉自民党は都市に住む無党派層の若者に狙いを絞り、その層から大量の票を奪ったと言われている。 が、それだけではないのではないか。女性という要素も若者という要素に劣らず重要だったのではないかと私は思うのである。つまり小泉首相は女たちから支持を受け、女たちから票を奪った。若年から熟年まで広範囲に女性票を民主党から奪ったのではないか。女の票を奪うことができたのは、女の心を奪うことができたからだ。今度の小泉自民党の選挙戦略のキーワードは「女」だった。刺客候補に対して有権者が拒絶反応を示さなかったのは、彼女たちが仕事も恋愛も現役のいい女たちだったからであり、同じ女でも南野知惠子のような一丁上がった女ではなく、政治の現場でも、また女性週刊誌でも、華やかな話題を今後も提供してくれる夢のあるギャルだったからである。あのシンデレラ・ショー・ポリティックスは見る者にとっては不愉快なものではなく、逆に心をときめかせる魅力的な演出として受け止められたに違いない。ダンディーで果断な小泉首相が次から次に刺客ギャルを選挙区に放つ映像は、少なからず女たちの心を揺さぶったはずだ。
女性のブログ読者は想像して欲しいのだが、例えばある日、携帯電話に小泉首相から直接メールが入って、「今夜、時間ができたから二人で食事がしたい」と誘いがあったとする。断るだろうか。私が女なら断らない。イブニングドレスとジュエリーを身に着け、赤坂見附の駅から弁慶橋の坂道をいそいそと歩いて行くだろう。トリアノンの個室に着いたら、そこには小泉首相が一人で待っていて、ピノブランでミモレットを齧りながら、あの夜に公邸で森善朗と何があったのか一部始終を教えてもらうのだ。鴨のフォアグラポワレと鯛のパテを頬ばりながら、どうやって堀江貴文を口説き落として担ぎ出したか裏話を教えてもらうのだ。98年のオーパスワンを2本くらい空けながら、2年前に行ったバイロイト音楽祭の感動とワーグナーがいかに素晴らしいか夢中で話すのに聞き入るのだ。そしてテーブルにシトロネルのグラニテが運ばれたとき、小泉首相が目を見据えてこう言うのだ。「スイートをリザーブしているから泊まって行って欲しい」。私が女なら拒否できるだろうか。
終電の時間があるから帰りますと席を立つことができるだろうか。私はできない。私が女なら拒絶の選択はしない。バツイチの独身の身で夜な夜な公邸で何をしているのか、最初の妻とはなぜ別れたのか、父親として本当は息子たちの事をどう思っているのか、一つの寝具の中に入り、目と目を合わせ、顔と顔をくっつけて、直に聞いてみたいという衝動を抑えることができない。冷酷非情と言われ、誰にも心を許さないと言われるこの権力者の内側を、一瞬でもいいから覗き見る機会を得る誘惑に勝つことができない。肌と肌をぴったり合わせ、右脚を下半身の奥に割り入れて、この男の身体を確かめようとするだろう。シークレットサービスが外を警護するスイートで、言われるままに一夜を過ごし、噂されている性趣味の真否を確認してしまうだろう。小泉首相の魅力は時代を心得た絶妙のセックスアピールにある。非情な視線と粗暴な台詞、痩身を包むクールビズのダンディズム、インパクトのあるアジ演説、美食と芸術の豊穣な趣味、そして不良な私生活。
民主党の岡田克也はそうした小泉首相のイメージと対照的な男性像を見せていた。家庭を大切にし、歳暮や中元も全て突き返す真面目男、白のシャツとプレーンなタイ、黒のスーツ。愚直を全身のコーディネーションで表現していた。が、どうやら岡田克也の愚直より小泉純一郎の不良の方が、今の時代はアピールとして女にウケるのに違いないのだ。岡田克也が民主党の党首に就くにおいては、菅直人の五年前の女性醜聞事件と一年前の年金未納問題があった。クリーンな人間を党首にという動機が強く働いて、誠実で清潔で実直な岡田克也が党首になった。民主党の選挙戦略は、その岡田克也の人物像を強調してプレゼンテーションしていたと思うが、票を奪ったのはバツイチ小泉純一郎の不良男のセックスアピールだった。女たちも昔のように家庭で専業主婦をしているわけではない。社会に出て、多くの人と人の間で経験を積んで生きていて、価値観や感性も昔のものとは変わっている。むしろ小池百合子や藤野真紀子のような生き方の方が理想なのだ。
マニフェストよりセックスアピール。気分としての今の日本の女は、灰になるまでギャルなのだ。
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小泉劇場は続く - 次に抵抗勢力として粛清されるのは麻生太郎
http://critic.exblog.jp/3472052/
2005-09-15T23:30:00+09:00
2005-10-01T20:25:45+09:00
2005-09-15T11:05:44+09:00
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郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
野田聖子は実は小泉政治の今後にとって最も重要なキーパーソンなのである。その意味は別稿で詳しく述べよう。その前に総裁選の話から始めなくてはいけない。小泉首相は大勝利から一夜明けた12日の会見で次の内閣にはポスト小泉の実力者を揃って入閣させると発言した。実はこれは小泉首相の恐ろしい罠である。その報道に続いて、麻生太郎と谷垣禎一の二人がテレビに映って嬉しそうに顔を綻ばせてコメントしていた。いよいよ次は俺かと胸を高鳴らせていたに違いない。私は苦笑してしまった。彼らは総理総裁になるのではなく、次の「抵抗勢力」になるのだ。思い出して欲しい。小泉首相の演出政治、いわゆる小泉劇場にはパターンがある。決まった法則がある。それは抵抗勢力である。小泉改革に対する抵抗勢力。必ず抵抗勢力を作り出す。悪の抵抗勢力を正義の小泉改革が国民の力を借りて滅ぼす。それが小泉首相の演出政治である。麻生太郎、谷垣禎一、与謝野馨、このポスト小泉連中が手を挙げて入閣する。手を挙げた者が粛清される。 私の予想では恐らく麻生太郎が次の生贄になる。野中広務、亀井静香、小林興起に続く新たな「抵抗勢力」の象徴として祭り上げられて、「小泉改革」の標的にされ討滅される運命になるだろう。今回のポスト小泉入閣人事は悪魔の謀略の布石なのだ。一年後に総裁選が始まる。誰もが麻生、谷垣、福田、安倍、その辺の戦いになると考える。そして小泉首相がこの中で誰を後継総裁に指名するのだろうかと予想を巡らす。本命は誰、穴馬は誰、と二十年前の中曽根康弘の後継総裁選びの時の竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎の三人のレースを思い出す。忠誠競争をしたり独自色を打ち出したりして、実力者の間で競争が始まり、最後は小泉首相が意中の人物を指名して後を託すものと考える。小泉首相は惜しまれて引退すると考える。が、そうはならないのだ。違うのだ。総裁選の前哨戦が始まり、実力者たちの立候補が確定的になった頃、横からスッと手を挙げる意外な人間が出て来る。私はそれが野田聖子だろうと思うが、別に野田聖子でなくてもよい。
誰でもよい。小池百合子でもよい。例えば小池百合子にしよう。小池百合子が手を挙げて、「私も総裁選に立候補します」と宣言するのだ。誰もがあっと驚く。そして実力者たちは「おいおい、そんな話はないだろう」と文句を言い出す。サプライズ。そこで小泉首相が登場して言うのだ。「私は小池さんを支持します」。小泉マジックである。そして総裁選を話し合いではなく公選に持ち込み、例によって街頭に立って全国の自民党員に訴えるのだ。「何で女じゃ駄目なんですか、何で男じゃなきゃいけないんですか」「女性にだってできることはありますよ」「何で党員歴が長くなきゃ総裁ができないんですか、当選回数が多くなきゃ総理大臣の資格が無いなんておかしいでしょう」「私はそういう自民党の古い体質をぶっ壊すと国民に約束したんです」「皆さん、ぜひ自民党に入党して小池さんに一票入れて下さい、皆さんの力で小池さんを新しい総裁にして下さい」「女は駄目なんて言っている抵抗勢力はこの小泉が許さない」。どこかで聞いた話である。いつもの話と同じである。
こういう具合になる。小泉首相が推す女性候補の前に立ちはだかったポスト小泉の実力者は、抵抗勢力のレッテルを貼られ、古い自民党の象徴としてマスコミの集中砲火を浴びる。そういう悪役にぴったり嵌るのが麻生太郎なのだ。あの顔なのだ。これから半年の間に小泉首相は党内に新抵抗勢力を作るだろう。増税問題か、農協民営化か、NHK民営化か、何か大きな政策上の争点を作って党内に対立を生ませ、「小泉改革」に抵抗する勢力をわざと作るように仕向けるだろう。そして自分は9月に完全に隠居すると明言して、ポスト小泉の実力者を安心させるだろう。反小泉の心情は今でも自民党内に燻っている。小泉引退後は「小泉改革」とは別の路線で元の自民党の和気藹々の集団に戻ろうという声は必ず上がる。そして実力者が必ず担がれる。担がれた人間が粛清の標的にされるのである。小泉首相の腹の中は院政支配体制であって、隠居や引退では毛頭ないし、小泉政権の基盤の一角であるマスコミが引退を許さない。ブッシュ政権も許さない。
演技をするのだ。演技をして巧妙にポスト小泉の実力者である麻生太郎を抵抗勢力の旗頭にしてしまうのである。そして粛清するのだ。小泉政治には必ず小泉改革に反対する抵抗勢力が必要である。党内に政敵を作り、誰かを常に抵抗勢力にして粛清劇を続けなければならない。マスコミの力と大衆の力を使って抵抗勢力である政敵を討滅し粛清するのだ。それが小泉首相の演出政治の手法であり、抵抗勢力が惨めに粛清される度に、マスコミは「小泉改革」が一歩前進したと言って賛美するのである。こういうシナリオになる。一年後に総理総裁になるのは間違いなく女性である。そしてそれは小泉純一郎の操り人形の傀儡総理である。カネも人事も政策も全て小泉純一郎が握る。総裁選の余波は抵抗勢力の役を回されたポスト小泉の実力者の脱党に及び、党内からまた派閥の影響力が削がれる。弱小派閥は解散に追い込まれるだろう。このやり方、何かに似てないか。誰かのやり方を思い出さないか。党内にわざと敵を作って粛清し、粛清の中で権力を強める。
そう、スターリンのやり方である。来年の自民党はソ連共産党になる。
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擬似二大政党制の崩壊 -「政治改革」を宣伝した政治学者たち
http://critic.exblog.jp/3467751/
2005-09-14T23:30:00+09:00
2008-03-03T21:10:12+09:00
2005-09-14T15:43:37+09:00
thessalonike
郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
二大政党制の下での政権交代という幻想は完全に崩壊したと言ってよいのではないか。この先、小泉政権の「改革政治」が続くかぎり、衆院113議席の民主党は翼賛政党としての存在意義しかあり得ない。小泉政治とポスト小泉政治が「改革」のシンボルを独占して、絶対正義の「改革政権」としてオーソライズされ続ける以上、一体どこに政権交代の可能性があると言うのだ。「改革」は小泉自民党の代名詞であり、民主党はそれを嫌がる愚劣な反対政党でしかない。そして議席は与党の三分の一しかない。二大政党の一党などというような偉そうな存在では最早ないのだ。演出政治の噛ませ犬でしかなく、小泉劇場の政治の斬られ役の弱い悪役でしかない。民主党は今回の惨敗のツケをこれから払わされる。これから民主党の連中が惨めな思いをする番だ。「サンデープロジェクト」の田原総一朗とか、「テレビタックル」の浜田幸一がボロクソに罵倒する。結果は尾を引く。民主党の支持者が支持者でいるのが嫌になるテレビ政治の拷問と苦痛が延々と続く。 民主党の敗因について様々な角度から議論が上がっているが、私が取り上げたい本質的な問題として、岡田克也を含めて民主党の幹部たちは、政治と行政の区別がついていないのではないかという疑念がある。政治と行政の概念の混同。政治を行政と同じものだと錯覚している。岡田克也は政治家ではなく行政家なのだ。マニフェストというのは政治ではなく行政の範疇の問題である。岡田克也は行政家としての自分の有能さを必死で国民に訴えていたのであり、行政家集団としての民主党を売り込んでいたのである。岡田克也は民主党が自民党よりもはるかにいい行政運営ができることを知っているし、自分が小泉純一郎など比較にならぬほどの有能な政策通であることを知っている。そのことがなぜ国民に認めてもらえなかったのだろうと口惜しく思っているに違いない。そうではないのだ。君は分かってないのだ。政治とは行政ではないのである。政治家の能力とは行政家の能力のことを言うのではない。権力を奪らなくては行政もできないじゃないか。
岡田克也の人格の中には政治闘争の経験やセンスが全く感じられない。情勢判断や人心掌握の才能が欠如している。さらに言えば政治哲学の要素がない。だから演説に迫力がない。民主党が訴えたのは行政プロパーのサービスカタログであり、民主党の行政サービスの方が自民党の行政サービスより上だという主張だけである。それがあのマニフェスト・ポリティックスであり、早い話が行政施策の宣伝競争だ。だが政治は行政ではない。違う。国民が選ぶのは政治の指導者であって行政の指導者ではないのだ。政治的手腕のある指導者に一票を投ずるのである。行政と政治の区別がついてない岡田克也は、小泉首相と武部幹事長が鬼気迫る形相で刺客候補を擁立していた頃、民主党本部の幹部会で締まりのない顔で選挙対策会議をやっていた。その会議は異様で、党首の岡田克也が正面議長席の羽田孜の横に座って幹部の話を頷いて聞くというもので、実に緊張感のないシラけた映像だった。久々にテレビに出た羽田孜が嬉しくてたまらず笑っていた。
あの二つの映像のコントラストを見ただけで、三週間後の選挙結果が予想できたというものである。国民は「強い指導者」を求めているというのに、岡田克也はそれに気づかず、真剣で清潔な行政家をアピールすれば有権者は選択してくれると考えていた。民主党の若い連中は政治というものを知らない。政治を行政だと観念している。松下政経塾を卒業することが政治家の能力と資質の証明だと思っている。政敵と戦うこと、権力を取ること、集団を組織すること、大衆を説得することを知らない。行政の知識だけでは政治の知識にはならないのだ。政策に精通しているだけでは政治家の能力にはならない。小泉純一郎に一票を投じた有権者の殆どはマニフェストの読み較べなどやってはいない。次の選挙も、その次の選挙も、いくら民主党系の論者(北川正恭・佐々木毅)がマニフェスト選択を宣伝しても、有権者はそんなものでは政党支持を左右されない。書き並べている行政目標項目など、どうせ後で反故にされるものであり、その場凌ぎの紙切れだからだ。
小選挙区制の導入と二大政党制の演出が日本の政治から政治の本質(哲学理念・権力闘争)を奪い取って政治を行政化した。行政を政治だとして(スリカエて)国民の観念を押し固めた。民主党というのはまさに「行政化された政治」が体現された政党なのだ。政治哲学のない、没政治理念の、政治的人格と政治指導者を欠く、政策を僭称する行政項目羅列のみの、行政屋予備軍集団、それが民主党なのである。岡田克也は(政治の本来性を剥落させた無味乾燥な)民主党を象徴する人格であり、しかも彼は小沢一郎と菅直人が勢力均衡する組織の中心に暫定的に置かれた「雇われ党首」だった。権力を奪い合う政治の本質を理解も洞察もしていなかった。だから郵政国会と衆院解散の際に油断したのであり、隙を衝かれたのであり、体勢を立て直せなかったのである。小選挙区制導入によって幕が開いた二大政党制追及の時代は終わった。これまで共産社民から民主に流れ込んでいた左派の流票現象が止まった。左派の側の有権者が幻想から醒めたのだ。
二大政党制の幻想を振り撒いて国民を騙し、日本に小選挙区制を実現させたのは、この十年間ずっと民主党を応援してきた政治学者の諸君である。佐々木毅、山口二郎、後房雄。君らは現下の改革ファシズム体制の完成を見てどう思うか。こうなった責任は君たちにあると思うが、どう国民に詫びるつもりなのか。
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二大政党体制からファシズム体制の時代へ - 民主党の終焉
http://critic.exblog.jp/3467096/
2005-09-14T23:30:00+09:00
2008-03-03T21:10:34+09:00
2005-09-14T12:05:42+09:00
thessalonike
郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
岡田克也は惨敗の夜の生中継で「次の選挙で必ず政権交代する」と言った。が、その言葉をリアリティを持って受け止めた人間は、民主党の議員や支持者も含めて、果たして何人いただろうか。今回の結果は自民党の296議席に対して113議席。半分以下だ。選挙期間中さんざん「小泉改革」を宣伝して支援し続けてきたマスコミは、選挙が終わった途端に選挙中の自分の所業は忘れて、「次の選挙はどちらに風が吹くか分からない」などと無責任なことを言っている。何と欺瞞的な言い方だろうか。小泉自民党を圧勝させたのはマスコミで、小泉首相が「改革」を掲げて演出政治を続ける限り、それが党内闘争であれ、国会論戦であれ、国政選挙であれ、マスコミは必ず「小泉改革」を礼賛して小泉自民党を勝利させるのだ。選挙が終わった途端に元の放送法の中立原則の建前の皮を被り直して、また視聴者国民を欺き始めたが、選挙が始まったらすぐに中立公平の衣を脱ぎ捨てて、獰猛果敢に野党攻撃を再開するのは目に見えている。 この国の体制が変わったのであり、今回の事態は革命なのだ。マスコミは今後絶対に報道の中立は守らない。現在のマスコミにとって「中立」とは「小泉改革」を宣伝して応援することだ。権力の一角(第四の権力)を占めるマスコミが小泉政権の基盤の一部になったのであり、すでに独立でも中立でもない。新自由主義の革命権力によってマスコミが制圧され拠点化されたのだ。二度と逆戻りはしない。民主党が選挙で勝つ条件は論理的に失われている。上の「次の風」の話は岸井成格と田勢弘康が言っていた台詞だが、「風」を起こしたり吹かせたりするのは当の本人ではないか。要するに、勝たせて欲しかったら俺の言うことを聞けと二人が民主党を脅しているのであり、赤坂か築地で美味いものを毎週食わせろと民主党に強請っているのだが、たとえ民主党が岸井成格と田勢康弘を料亭で接待漬けにしても、次の国政選挙が始まった瞬間、二人は賄賂も接待もケロッと忘れて「小泉改革」支持のプロパガンダに狂奔するに違いない。
現在の政治はファシズムであり、「小泉改革」に逆らう者は社会の中で生きる場所を与えられない。小泉政権が今後提出する全ての法案と政策は「改革」のシンボルマークでパッケージされ、神聖化され正当化される。その法案や政策に反対する立場や勢力は、「改革」に反対する抵抗勢力としてマスコミに集中砲火を浴びる。反対ではなく対案を出せと言われ、対案とはすなわち小泉政権の法案や政策に対立しないもののことを言う。つまり対案を出せというのは翼賛せよというのと同じ意味なのだ。野党は小泉政権の翼賛勢力としてしか認められない。今後、小泉政権が教育基本法改正案を出す。防衛省格上げの法案を出す。サラリーマン増税の税制改革案を出す。それらに野党が反対すれば、それは「改革」への抵抗であり、報道番組で袋叩きにするべき政治悪なのだ。野党はそれらに反対してはならず、「対案」を出さなければならない。小泉政権の打ち出す施策に基本賛成して、微細な部分で違いを出すことだけが求められ、許容される。
そして選挙になれば、対案の出し方が拙かったのだと非難される。基本的に賛成だったら最初から法案に賛成しとけと罵倒される。政府案に反対をしたお前らは「改革」への反逆者だと言われて容赦なく吊し上げられる。要するに野党はもう要らないということなのである。小泉自民党だけが「改革政治」をやればよいということだ。野党は形だけの飾りでいいとマスコミは言っているのだ。だからファシズムだと私は言っているのである。今後、マスコミが政権批判をすることは絶対にないだろう。小泉政権と小泉傀儡政権が続くかぎり、「改革」は戦前の「国体」と同じ拘束力と強制力を持って日本の政治を支配する。誰も「改革」を否定できない。「改革」が「国体」であり、小泉首相が昭和天皇である。二大政党制の時代は終わったのだ。形式制度上は二党が政権交代を競う二大政党体制だが、実質は違う。小泉構造改革の政治が続くかぎり、民主党は翼賛政党としてしか存続することができない。「改革政治」の補完野党としての存在意義しかない。
共同通信の後藤謙次は「05年体制の確立」と言ったが、この言い方の方が当を得ている。「05年体制」とは別名「改革ファシズム体制」である。二大政党制の時代は終わった。小泉純一郎が改革独裁権力を維持するかぎり、実質的な二大政党体制はない。少なくとも今後四年間はない。民主党は国会の議席をこれから減らすだろう。党の分裂内紛か自民党からの引き抜きか、政権への可能性を断たれた現在、議員のモラルは下がる一方で、党の存在意義を疑い、幹部の政治能力を疑う者が少なからず出てくる。小泉純一郎は296人を一人で束(ファッショ)にできる強い指導者だが、わずか113人を統率できる指導者が民主党にはいない。菅直人が引っ張れるのは40人ほどで、小沢一郎が引っ張れるのは30人ほどだ。その問題と関連して思い出すのは、注目選挙区だった広島六区や岐阜一区や静岡七区の民主党候補の非力と凡庸で、これは実に印象的で対照的だった。民主党が真面目に選挙の準備をしておらず、人材の面で政権交代の能力を持っていないことは、刺客選挙区の候補者を一目見てよく分かった。ただのおバカなサラリーマン崩れだった。
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組閣人事のサプライズとポスト小泉 - 野田聖子の復党と入閣
http://critic.exblog.jp/3461296/
2005-09-13T23:30:00+09:00
2005-09-14T08:30:18+09:00
2005-09-13T10:06:22+09:00
thessalonike
郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
小泉劇場はまだ終わらない。むしろこれから本番が始まる。仕上は新内閣の組閣人事である。結論から先に言おう。郵政民営化法案成立後の閣僚人事は誰もがあっと驚くサプライズ人事になる。目玉は野田聖子の赦免と入閣だ。小泉首相は郵政法案への支持と「小泉改革」への忠誠を条件に野田聖子の復党を許し、許すどころか新内閣の総務大臣に抜擢するだろう。郵政民営化の騒動で軋んだ党内の歪みを寛容の大団円で修復演出して、文字どおり自民党を小泉党にするのである。そして反対派の象徴的存在だった野田聖子に所管大臣として郵政民営化を執行させるのだ。これ以上劇的なドラマの筋書きはない。昨日の記者会見で、小泉首相は次の内閣にはポスト小泉の候補を揃えると言った。これには重大な含みがあり、意味深長な駆け引きがある。同じ日にテレビの報道番組に出演した野田聖子は、次の特別国会で郵政民営化法案の採決に賛成票を投じる態度を明らかにした。注目の閣僚名簿をお見せよう。私の予想は次のとおり。 総務大臣 野田聖子
法務大臣 町村信孝
外務大臣 猪口邦子
財務大臣 谷垣禎一
文部科学大臣 安倍晋三
厚生労働大臣 与謝野馨
農林水産大臣 高村正彦
経済産業大臣 麻生太郎
国土交通大臣 北側一雄
国家公安委員長 中曽根弘文
環境大臣 石原伸晃
防衛庁長官 片山さつき
経済財政担当大臣 竹中平蔵
金融・規制改革担当大臣 佐藤ゆかり
行政改革担当大臣 山本一太
官房長官 小池百合子
ポストは多少異同があるだろうが、概ねこのような人選になる。派閥からの推薦は一切受け付けない。領袖と調整や相談もしない。その必要もない。小泉首相と飯島秘書官が二人で鉛筆を舐めて、それを幹事長の武部勤が横で黙って頷くだけ。選挙の公認候補選びと同じ。女性議員が五人入閣する。そのうち今回の刺客ギャルが四人を占める。窮極のサプライズ人事。五人の女性閣僚はひな壇の最前列で首相を囲んで写真に納まる。首相の横に野田聖子が並び、その横に佐藤ゆかりが並ぶ。小泉首相は四年前の初組閣時に達成したレコードを超える史上最高の内閣支持率を狙っているのであり、実際に達成するだろう。自民党にはすでに派閥は消滅したも同然で、反主流も非主流もなく、一党まるごと小泉派になっている。非主流派閥として与党内に存在するのは公明党だけだが、296議席の自民党の総裁、しかも派閥を超越した絶対的な独裁者に対して諫言や注文ができる環境にはない。現在の小泉首相はフューラーである。
安倍晋三には教育基本法改正をやらせる。来年の通常国会に改正案を提出して可決成立させる。片山さつきは財務省主計官のとき防衛庁が担当だった。勝手知ったる自分の庭だが、政権公約に従って防衛庁を防衛省に格上げしなければならない。防衛省格上げという国民の中に拒絶反応が出るタカ派政策の遂行に当たっては、石破茂のような強面の男を担当に据えるより片山さつきのような軽いギャルの方が具合がいい。このリストの中には、いわゆるポスト小泉のキャンディデイトが七人入っている。普通に考えれば、谷垣禎一や麻生太郎や安倍晋三が最有力の次期総裁候補と見られる。が、違う。小泉劇場の最終幕は実は一年後の後継総裁選びにある。ズバリ言おう。小泉首相が後継者として腹の中で考えているのは、安倍晋三ではなく野田聖子だ。野田聖子を新しい総理総裁にして、小泉純一郎が後ろで人形のように操るのだ。
嘗ての田中角栄のようなキングメーカーになる。総理総裁の職からは離れるが、院政を敷いてガッチリと権力は握り続ける。ひょっとしたら自民党の総務会長に降格滑りして就任するかも知れない。総務会は自民党の最高意思決定機関であり、従来は派閥の幹部が集まって法案や予算の最後の利害調整と意見集約をする場だった。党内権力闘争の場でもあり、郵政法案も最後はこの胸突き八丁で大揉めに揉めた。自民党の党組織を一枚岩の「民主集中制」に変えた小泉首相は、このポストで党内全体に睨みを利かせる可能性がある。小泉純一郎は最高権力者としてとどまる。もはや自民党は小泉私党であり、小泉純一郎を欠いては動かない政党になっている。再来年の参院選挙も、自民党は票を取るために「改革」を看板に掲げて戦うだろうし、その場合は当然ながら小泉純一郎が街宣車の上に立たなければならない。小泉人気以上の風を起こせる演出政治のリーダーはいない。小泉純一郎が出れば、マスコミは必ず政権を支援する。
一年後も二年後も「小泉改革」は続くのであり、必然的に「小泉劇場」も続くのだ。ポスト小泉の新首相は傀儡で、すなわち操り人形である。田中角栄が操った鈴木善幸とか、小沢一郎が操った海部俊樹とかと同じだ。党内に派閥の勢力は絶無となり、衆院で三分の二を取ったことで参院のドンの青木幹雄も失脚した。参院執行部は用無しの存在になった。もう何の発言権もない。飾りの存在だ。「小泉改革」の最終ゴールは憲法改正であり、そのためには今回と同じ旋風を巻き起こして参議院選挙で与党三分の二の議席を取らなくてはいけない。それは麻生太郎や谷垣禎一ではできない。小泉純一郎だけができる。だから次の参院選にも必ず小泉純一郎が自民党のトップリーダーで登場する。新しい総理総裁は「小泉改革」をそのまま引き継ぐ人間で、かつ大衆に人気のあるマスコットキャラでなければならない。ポスト小泉の七人を見たとき、その条件を適えているのは野田聖子だけだ。野田聖子が新首相になり、それを小泉純一郎が院政で後見する。
一年後の聖子傀儡政権に向けての布石として、恩赦復党と抜擢入閣の儀式がある。人情家小泉を演出する。郵政民営化問題を止揚する。ドラマはこれから盛り上がる。サプライズ政治の予測をまとめよう。
① 小泉首相は造反議員を赦免し、郵政法案賛成を条件に復党を認める。
② 新しい内閣の閣僚名簿はポスト小泉の有力者と刺客ギャルで埋める。
③ 小泉首相は総理総裁を辞めても院政を敷いて最高権力者であり続ける。
④ 小泉首相の意中の後継総裁は野田聖子である。傀儡として操縦する。
⑤ 二年後の参院選挙で再び小泉旋風を起こして憲法改正をめざす。
⑥ 小泉絶対王政を四年間続けて、日本経済を米国資本の植民地にする。]]>
新自由主義の「自由と必然の王国」へ - 「革命」と「ファシズム」
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2005-09-12T23:30:00+09:00
2006-09-10T15:13:45+09:00
2005-09-12T11:26:21+09:00
thessalonike
郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
今度の選挙は結果も経過もきわめて重大な歴史的事件であり、後で歴史の教科書に記述されるだろう。これからその意味をめぐって議論が続くだろうが、議論は十年間以上長く続くに違いない。いろいろな角度から意味づけすることができ、今後の日本の政治を予想することができる。この事件は必ず世界を変える、これから日本と自分はどうなるだろうと思ったのは4年前のことで、不安に苛まれながらネットの中を逍遥していた自分を思い出す。今度の政治的事件もそのときと同じかそれ以上の衝撃であり、頭の中を様々な想念と思考が溢れ、そのため脳の興奮状態が止まらず続いて、昨夜は明け方まで眠れなかった。眠れず、起き出して画面を起こし、また床に伏して寝つけずという時間を過ごした。睡眠不足のため頭は混乱し、意識は錯綜していて、うまく文章を結ぶ自信がないが、思い浮かんだ幾つかの観点を述べてみよう。キーワードが二つある。 今回の事件は「新自由主義による革命の勝利」だ。革命であると思う。革命とはすなわち、単に国家権力の上部での転覆や交代に止まらず、社会全体の人々の意識や思想、価値観や人生観のラディカルな転換を伴うトータルな政治変動を言う。今度の選挙で絶対的な革命権力を得た新自由主義は、何の躊躇も容赦もなく戦後日本が構築してきた福祉国家の諸制度を破壊、解体することができる。4年間の絶対権力というフリーハンドで可能な限りの社会保障の政府支出を削減するだろう。新自由主義の「小さな政府」の論理に従えば、社会保障費の政府予算ゼロの国家が理想なのである。政府が面倒を見る諸保険制度は全廃するのが理想なのだ。年金保険、医療保険、失業保険、生活保護。厚生労働省を廃止するのが目標なのである。社会的弱者の保護を政府の任務から除外し、国民の生活の権利(25条)を消滅させることが目的なのだ。
新自由主義の革命がめざす「自由と必然の王国」は、福祉という言葉がなくなった社会である。福祉という概念が制度と共に博物館に入る社会を言う。福祉は悪なのであり、福祉の思想や制度は駆除して抹殺すべき害悪なのだ。政府は社会を平等化してはならず、国民に平等な生活権を与えてはならず、逆に格差が最大限開くように方向づけしなければならない。給付はゼロにして、税金は平等にする。累進課税制度は廃絶し、できれば所得税そのものも廃止して人頭税にする。国民は一律定額の人頭税と消費税を払う。法人税も廃止する。閣僚として政府に入る前の話だが、竹中平蔵はテレビで大真面目に所得税の廃止と人頭税の導入を主張していた。人頭税という言葉を聞いて、私は世界史の授業で習った明の一条鞭法を思い出し、人頭税なんて考え方が現代の税制を議論する場で持ち出されるのに驚嘆したのだが、今度の革命でその方向が固まった。
「革命」という言葉と並んで頭に浮かんだもう一つの言葉は「ファシズム」だった。私の頭の中では、今回の政治の経過と結果は革命とファシズムという二つの言葉で納得的に表象される。ファシズムという言葉以上に現在の政治を説明する適当な言葉はない。具体的に言おう。今の「改革」という言葉は、まさに戦前の「国体」と同じ魔力を持って機能している。そう思わないか。眼前の風景はまさに「改革護持」「改革明徴」のファシズムの世界であり、「改革」に反逆する者は国賊として袋叩きにされる時代である。報道番組で「小泉改革」に疑義を唱えた者は、古館伊知郎やみのもんたなどの暴力的で非知性的な仕切が売りのキャスターによって罵倒され、強引に発言を遮られ、スタジオ配下の評論家によって集団リンチの目に遭わされる。「改革反対派」のレッテルを貼られ、テレビで発言する資格を奪われる。「小泉改革」はマスコミにおける絶対正義なのだ。
没落する中産層が「強い指導者」の幻像にすがり、救済と革新を求めて独裁権力に期待を託す政治構図は、30年代のドイツや日本のそれと本当に酷似している。憲法の言論の自由がありながら、政権が主導する「改革政治」には無条件の翼賛以外に許されないという状況は、実にワイマール体制下のドイツのファシズムを想起させる。けれども、私が今の日本が当時のドイツより悲劇的で欺瞞的だと思うのは、少なくともヒトラーは、主観的にはドイツ人に豊かな生活を与えようとして、ユダヤ人の民族虐殺と財産没収、スラブ人の奴隷化とウクライナのレーベンスラウム化を遂行したのであり、失業対策のためのアウトバーン建設などニューディールまがいの公共事業もやっている。わが国のファシズムの指導者は、そうではなく、国民から富を収奪し、国民の生存権を直接に奪い取っているのである。その小泉首相の「改革政治」に帰依して、神様のように崇めて一票を入れているのだ。小泉首相はヒトラーよりも欺瞞的で悪魔的だ。
そして現在の日本国民は、当時のドイツ国民より愚かで哀れで悲劇的だ。
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2005-09-11T23:30:00+09:00
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thessalonike
プロフィール ・ その他
今日は投票日。とくらさんの胸を苦しくさせる話ばかりでもいけないので(笑)、本日はグッドニュースから。あるベンダーからメールが入って、学研の『最新ブログ人気ランキング200』というムックに当ブログを紹介するから原稿の協力をという依頼があった。連絡をもらったのは8月末で、本の発売日は9月16日。実際に掲載が確認されてから皆様にご報告をと考えていたけれど、検索で調べるとネットの中では同じ立場のブロガーたちがリークをしている。もし本当に掲載になれば、これは平素からの読者の皆様のご支援の賜物と言う以外なく、この場をお借りして深く深く感謝を申し上げたい。連絡によれば、「世に倦む日日」は、「ジャーナリズム、評論、専門分野のカテゴリーでランキング上位に入っております」とのことだった。当ブログを推薦してくれた関係者の方々にも御礼を申し上げたい。今回の選挙が悪い結果ばかりには終わらなかったという話にしたい。 選挙が始まって一気にアクセスが増えた。右上のカウンターはページビューではなくビジターを取っている。PVはこの一週間ずっと1日1万件を越えた。PV1万件はブログの人気度を測る一つのメジャーメントになるだろう。私はPVよりもビジター数を重視している。ブログを単に広告媒体として考えればPVが重要だが、ジャーナリズムの観点から考えれば大事なのはブックマーク・リピーター、つまり定期読者の数である。これを増やすことが目下の運営上の関心事で、当面は1日1万人の訪問者数を得ることをめざしている。文章に価値を認めてもらえれば、コンテンツが面白ければ、メッセージにインパクトと共感を感じてもらえれば、視点と表現にセンスを認めてもらえれば、これは本物で参考になると思ってもらえれば、「世に倦む日日」のコラムをデイリーの情報生活の一部に入れてもらえる。リピーターになってもらえる。読者は確実に増えて行く。
質の面で他のブログに劣っているとは思っていない。日本のブログジャーナリズムのクォリティをリードして、その地平と水準を世間に証明するのが「世に倦む日日」の任務だと思っている。朝日新聞の名前だけの官僚コラムニストを顔面蒼白にさせ、自信喪失と御役御免に追い込むのが「世に倦む日日」だと心得ている。そしてそれは300bpsの音響カプラでアスキーネットに繋いだ頃からの私の夢でもあった。私の文章は当時から何も変わってはいない。変わったのは一つは技術であり、20年前の無手順の通信が10年前にインターネットになり、それから10年を経てブログシステムが開発された。BBSからHPへ、そしてBlogの時代へ。この技術進歩は画期的で、米国の市民は早速それを大統領選の政治に応用した。変わったのはもう一つマスコミであり、新聞は放漫になってジャーナリズムの質を落とし、テレビは遂に政権の宣伝機関に成り果ててしまった。
ブログにアクセスが集中したのは、真実が新聞やテレビに無いからである。何も反小泉の人間だけが参集したわけではないのだ。郵政民営化を問う国民投票だと言い、賛成か反対かを国民に問うと言い、責任ある選択と判断を迫っておきながら、マスコミは賛成論しか言わず、民営化賛成一色で世論を塗り潰し、問答無用で賛成票(小泉支持票)を入れろと国民に言い続け、公平に郵政民営化反対論を報道することをしなかった。選択を迫られた国民は、郵政民営化に反対論があることさえ掴めず、誰が何でそれに反対しているのか理解できず、反対論の実在を求めてネットの中を探し回り、探索の末にブログに到達したのだ。国民投票と言っておきながら、賛否の一方の主張だけしかマスコミ報道されず、共産主義国家同然の新聞テレビになってしまったがために、真相を求めてネットのブログに人々の関心が集まったのである。集まらざるを得なかったのだ。
TB記事には掲載において内容の取捨選択をする。正義と真実をよく伝え訴える記事のみをトラックバック欄に揃える。新聞社の「読者の声」と同じだ。それは新聞社の主張の一部なのである。届いたものをそのまま並べはしない。エキサイト社の仕様では最大20件しかTB記事を表示できない。よいTB記事をなるべく長くブログ読者の目に触れさせようとするのは、TBを受けた(言わば編集者の)側の当然の配慮である。新聞の編集者が無価値な投稿をボツにするのと同じ。当ブログの右上に新規でトラックバック記事を載せると、推定だが、現在は恐らく記事あたり50件から100件のリターンアクセスを取れるだろう。1日3千人が訪問するブログの情報活動規模とはそのようなものである。TBはWINWINのコラボレーションであり、同時に人と人の出会いである。そこからスパイラルが広がる。これほどスリリングでロマンティックなものはない。ブログとはTBだ。
胸いっぱいのトラックバックをありがとう。
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薩長同盟の政治 - 政治とは可能性の芸術である (ビスマルク)
http://critic.exblog.jp/3440456/
2005-09-09T23:30:00+09:00
2008-03-03T21:10:58+09:00
2005-09-09T11:47:23+09:00
thessalonike
郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
別のところで論じた同じ話を繰り返させていただくけれど、薩摩と長州が同盟しなければ明治維新は実現しなかった。明治維新が成らなければ、恐らく日本は列強の侵食を受けて半植民地の状態になり、相当に奇怪で卑湿な近代史を歩んだに違いない。そのイフヒストリーは、例えば朝鮮や清国の失敗と挫折の歴史から簡単にイマジネーションすることができる。薩と長が結ばなければ、京で慶喜と久光の幕薩政権が樹立されていただろう。私はそのように考えている。封建制の保守については久光が代表し、上からの近代化を慶喜が代表する奇形的で動揺的な政治権力。民心は常に離反しがちで、政権内部も分裂と内紛を繰り返し、民族が一つに纏まらず、格差や地域差が異常に開き、外国に国富を削がれ、内憂外患の中で悪戯に疲弊し自滅する日本。そのような日本の姿を想像する。明治国家のようなクリアでステイブルな近代国家は世界史に登場することはなかっただろう。 幕末史に龍馬が出て、薩長同盟の奇跡が起こった。薩長同盟は実に奇跡であり、その奇跡のおかげで、日本人はおよそ考えられる可能性の中で最良の近代を選び取ることができた。龍馬の存在がなければ薩長同盟の成立はなかった。甲午改革後の朝鮮や戊戊変法後の清国のような屈折と醜態と停頓から免れられなかった。歴史が教科書になってしまうと、われわれは明治維新とその後の明治国家の歴史を必然の物語として捉えてしまう。現在の立地から当時を意味づけてしまう。それが必然の経路ではなく、まさに偶然の一条の隘路だった真実をよく想像できない。薩長同盟と倒幕の路線よりも、久光と慶喜の薩幕政権の方がはるかに蓋然性が高く、その方向へ導かれる可能性が大きかった。その場合は、蝦夷地は間違いなくロシア領になっていただろうし、琉球諸島は英国領か米国領になっていたのではないか。佐渡と対馬はロシアと英国が奪い合っていたように思われる。
当時の状況を考えてみたとき、無論、圧倒的多数の庶民は、きっと現在と同じように政治には無関心で、あるいはせいぜい政治を茶化して楽しむ程度の傍観者だったに違いない。松蔭たち尊皇攘夷派の危機意識も、国内の多数を占める無知な百姓どもが、外圧に対して何も危機感を感じず、仮に外国軍が上陸侵略して来ても逆にニコニコと愛想を振りまいて侵略者に近づき、外国勢力と結託して平気で日本を売るのではないかという猜疑心と恐怖心にあった。いつの時代でも政治は同じだ。が、末端階層より少し上の知識層、村の庄屋とか、町の商人とか、下級武士のところでは逆にナショナリズムが燃え上がっていて、このままではアヘン戦争後の清の二の舞になり、一刻も早く近代的な統一国家を確立して富国強兵に邁進せざるを得ないという情勢認識が常識になっていた。
思うのだが、特に安政の大獄期の革命派への弾圧を見た京の町衆とか、村の庄屋たちの部分では、新しい革命勢力である長と薩が連携して幕府を倒してくれたらいいなあと誰もが心の中で思っていただろう。幕府の「改革」は(言葉だけで)もう駄目で、どれほど慶喜が有能な改革の指導者でも、徳川幕府に任せていたら日本は滅びると思っていたに違いないのだ。が、それと同時に、とは言っても幕府の持つ権力と軍事力は諸藩と較べて絶大で、さらに禁門の変で長州が暴走自壊した後は、希望は薩長革命政権だけれど、成り行きは幕府の新改革路線(慶喜の構造改革)に落ちつくのかなあと誰もが現実的に考えていたに違いないのだ。希望というのは実現しないから希望なのだと、いつの時代でも人がそう思うように、当時の日本人もそう思っていたに違いないのだ。禁門の変で薩は長を裏切り、ために長の革命派は壊滅的な打撃を受け、村塾一の俊才の久坂玄瑞をも失っていた。
薩への怨念は深く、それは当然であり、長にとって薩は幕会以上の不倶戴天の敵であった。だから誰もが薩長同盟は諦めていた。その不可能を可能にしたのが、天が日本史のために使わした土佐の青年龍馬であり、龍馬はその仕事を華麗に果たして天に還った。薩を説き、長を説き、二者を会させ、一瞬の呼吸で不可能を可能にしたのは龍馬である。薩長同盟は前提においてイーブンな同盟ではなく、長は薩と組むことができなければ滅亡以外に道は無かった。薩は慶喜の改革路線と組むカードがあり、保守久光はむしろ慶喜と同盟するか、あるいは島津幕府こそが本来の願望であり、長と組む革命路線はギャンブルの選択に他ならなかった。薩が倒幕のギャンブルに踏み切ったのは、仲介者が龍馬だったからであり、仲介を受けた薩のリーダーが西郷だったからである。西郷と桂と龍馬。三人のうちどれが欠けても薩長同盟はなく、明治維新はなかった。奇跡が起きて日本人に幸福な歴史を与えた。
われわれの前には常に可能性だけがある。可能性を選ぶのは人間である。歴史を作るのは人間だというのはそういう意味である。ビスマルクは「政治とは可能性の芸術である」と定義した。
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NHKはライブドア放送に - 「改革の天守閣」としてのNHK民営化
http://critic.exblog.jp/3434828/
2005-09-08T23:30:00+09:00
2008-03-03T21:13:21+09:00
2005-09-08T10:47:46+09:00
thessalonike
郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
郵政民営化の本質については、政治に無知で無関心な堀江貴文がなぜ選挙に立候補したかを考えれば即理解できると論じた。この論稿に反響が大きい。郵政民営化問題は依然として今回の総選挙をめぐる論争と関心の中心であり、多くの国民にとって謎の状態のままである。そして謎の解析はネットの中でのみなされている。前回、堀江貴文はこの選挙の論功行賞として郵貯利権の分け前を小泉政権から譲り受けるだろうと予測した。リーマンブラザーズと組んで受け皿会社(ライブドア銀行)を作り、そこに郵貯230兆円のうちの20兆円ほどを貰うという勘定である。この分の公社株取得費用は5千億円くらいだろうか。カネはリーマンブラザーズが用立てする。さて、堀江貴文はこの20兆円を何に使うのか。堀江貴文がこのカネで真っ先に買収するのはNHKではないかと私は考えている。堀江貴文は放送局が欲しいのだ。民放は宝の山だから。そしてブロードバンド時代のネットは放送と融合するから。 フジテレビ買収に失敗した堀江貴文が手に入れるのはNHKである。政府からNHK株を購入する。NHK株も何社かに分割して売却される可能性があるが、懼くライブドアが主力を引き受けるだろう。NHKはライブドア放送となり、堀江貴文がそのオーナーになるのである。荒唐無稽な話だと思われる方も多いかも知れないが、郵政公社が民営化されれば、その次は必ず公共放送の分割民営化が俎上に上がる時が来る。現在、NHKは受信料徴収が思うようにならない問題を抱えていて、この現状が長引いたり拡大したりすると収益で赤字を出す。NHKはすでに職員のリストラ計画を発表して経営対策を講じ始めたが、新自由主義者や政権の息のかかった評論家や古館伊知郎らは、例によってNHKのお役所体質批判をプロパガンダして、放送受信料の不払いを奨励するキャンペーンを張るだろう。職員の給料が高すぎるとか、無駄遣いしているとか、税金を払っていないとかやるだろう。同じ事を繰り返す。
あの公共放送が新自由主義の牙城になる。まさにシンボリックな新自由主義の勝利。新自由主義の日本征服のマイルストーン。原理主義者がカタルシスの極致で失神しそうな絵である。竹中平蔵は歓喜のあまり発狂するのではないか。体制転換を象徴する出来事として、これは憲法改正と同じかそれ以上に衝撃的な歴史的事件と言えるが、竹中平蔵の意中のロードマップでは、おそらく2年後くらいのタイミングで射程に入っているだろう。今度の選挙で小泉自民党が大勝すれば、誰もこの動きを止められない。族議員が反対すれば党を除名するだろうし、NHK民営化法案が国会で否決でもされようものなら、間髪を置かず「賛成か反対か国民に問いたい」と凄んで衆院解散に出るだろう。今度の選挙で、民放テレビ局は小泉自民党の「改革」を応援するのが当然になって、放送法は事実上改正され、それが既成事実として固まったから、次に選挙があってもマスコミで小泉批判をする者は皆無の状態になるだろう。
冗談だが、「小泉改革の天守閣」とか、「改革の入り口の先にあった障害物の除去」なんてキャッチフレーズで、来年の春頃に「NHK民営化を問う国民投票選挙」でもやるんじゃないか。今度の刺客劇場の騒動を見て、次の出番を狙っている公募ギャルも沢山いるだろう。安藤優子とか白羽の矢が立ちそうだ。いずれにしても、堀江貴文への褒美は手厚くなる。堀江貴文が選挙に出馬しなければ、今度の演出選挙もモメンタムは半分ほどしかハプンしなかった。刺客作戦は茶番劇になっていただろう。広島六区に堀江貴文が出て、亀井静香と堀江貴文のコントラストをテレビカメラに追いかけさせたからこそ、刺客戦術は演出効果が見事に出たのである。無党派層を小泉改革に惹き付けるという選挙戦略において堀江貴文の起用は決定的な役割を果たした。堀江貴文の存在がなければ、堀江貴文が亀井静香の対抗馬として広島六区に入らなければ、民放もあそこまで極端な小泉支援には踏み切れなかったはずだ。
小泉自民党が勝利した場合は、その最大の功労者は堀江貴文である。だから堀江貴文は論功行賞として二つの利権を手に入れる。一つは郵貯民営化利権、もう一つはNHK払下利権。両方とも総務省管轄の利権である。総務省と言えば今の大臣は麻生太郎。堀江貴文と同じ福岡の出身だが、次の組閣ではどうなるだろう。で、仮に自民党政権が堀江貴文にNHKを払い下げたとき、果たして新ライブドア放送は、『シルクロード』のような質の高い(制作費のかかる)特集番組を続けてくれるだろうか。大相撲とかはどうなるだろうか。きちんと幕下の取組も放送を続けるだろうか。高校野球はどうなるのだろう。そんな心配をしなくてはいけなくなった。新自由主義と小泉政権は、庶民である私の夢や希望や小さな楽しみを、とにかく片っ端から潰してくれる。そしていつも決まり文句のように私の前で言う。「口惜しかったら金を稼げ」、「金のない人間が金持ちと同じ権利や娯楽を欲張るのは間違いだ」、「資本主義ではカネが全てだ」、「自己責任だ」。
18歳の男性のブログ。こういう記事を見つけると本当にBlogをやってよかったと思う。A lot of thanks !
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改憲シミュレーション選挙としての「郵政民営化国民投票」選挙
http://critic.exblog.jp/3429445/
2005-09-07T23:30:00+09:00
2008-03-03T21:13:57+09:00
2005-09-07T12:26:17+09:00
thessalonike
郵政民営化 ・ 総選挙 Ⅱ (15)
2週間ほど前に「9条の会は何をやっているのか」と訝しんだのだが、どうやら何もやっていなかった。自民党が憲法改正を堂々と政権公約に掲げ、そしてその自民党の圧勝が予想報道され、一市民であるわれわれでさえも焦燥感で息苦しく鬱懐する毎日が続いているのだが、護憲運動の御本家である「9条の会」のブログ(LD仕様)は、選挙などどこ吹く風とでも言わんばかりの平静さと明鏡止水ぶりである。私には意味がよくわからない。全逓(JPU)の不可解な達観姿勢とよく似ているように見える。ブログは選挙に関する主張や議論は何もせず、切迫した危機感は微塵も見られない。トークショーを見てきた話とか、沖縄旅行へ行ってきた話を楽しそうに掲載している。トラックバックも全然入っていない。憲法改正がリアルな争点になっている総選挙が行われているとは思えない。嫌な感じがする。公選法絡みの問題で選挙の話題はわざと避けるように組織の上から指令されているのだろうか。 それとも「マガジン9条」はイージーでライトなカルチャーで演出しろという方針が上からあって、それに従ってそれっぽく中身を作っているのだろうか。「マガジン9条」ブログに感じるのは、一つはそういう(透けて見える)裏の政治的意図と組織の論理だが、もう一つはある種のエリート意識のようなものである。労働貴族という言葉があったけれど、言わば護憲貴族とも言うべき感覚。「マガジン9条」ブログに寄稿している者の態度は、何か自分たちは特別な人気雑誌の編集者で、そして雑誌をありがたがって読んでいる読者が全国に沢山いて、その読者のために記事を取材、編集して与えてやっているのだという意識が窺える。ディストリビューション型の情報発信が前提で、原理的に双方向のコミュニケーションのスパイラルは意識されていない。組織の宣伝機関紙をブログ・システムにスライドさせているだけだ。ブログ本来の「運動」に寄与するトラックバック機能の活用が重視されていない。
私は「マガジン9条」の編集者たちに考えて欲しいことが一つあって、それは、今回の小泉首相の「郵政民営化を問う」解散と総選挙を、「憲法改正を問う」解散と総選挙に置き換えてシミュレーション・テストしてもらいたいということだ。この演出政治の実験と成功は、必ず法則化されて次の選挙にも応用されてくる。憲法改正を国会で発議する前には、必ずこのような擬似国民投票スタイルの解散総選挙を仕掛けてくるだろう。そして解散を断行した(演技力抜群の)総理大臣が、その夜に、渾身の演説で選挙の意義を説き、テレビの前の視聴者に向かって「賛成か反対か国民に問いたい」と迫り、翌日の世論調査で首相支持の数字がハネ上がったとき、果たして皆様はその総選挙で憲法改正を阻止できますか。そのことを今から考えておいて欲しいのだ。と言うより、今、そういう想像ができなければ、その人間は相当に鈍感な政治音痴で、改憲阻止の政治運動にも何も役に立たないだろうと私は思う。
そして解散後のテレビ番組では、竹中平蔵のような早口のディベート屋が出てきて、民主党の菅直人に向かってこう切り出すはずだ。「菅さん、それじゃ聴きますが、民主党は憲法改正に賛成なんですか反対なんですか」。同じ事が繰り返される。返答に詰まった民主党は、序盤での失地挽回のためにまたぞろ論陣を後退させ、「憲法改正には賛成だが、自民党の憲法改正案には反対」を言い出して、ズルズルと自民党のペースに巻き込まれて行く。先制攻撃で受けたダメージを回復できず、選挙戦中盤では一転して自民党よりも過激な憲法改正案を言い始め、周囲を失望と失笑に包む。そして選挙が始まる直前には世論で拮抗していた賛成と反対が、いつの間にか圧倒的に改正賛成が多数となり、憲法改正が国民世論として固められる。古館伊知郎とみのもんたが例によって大活躍する。今回の郵政民営化選挙はシミュレーションなのだ。少なくとも護憲派は今回の戦術をそう看破して分析しなければならない。
当ブログはアクセスが多く、だから後の影響を考えると、ご本人には若干恐縮なのだが、こういう興味深いブログ記事を見つけた。「マガジン9条」のブログよりもこちらの方が人間的で、すなわち政治ロボット的印象がない。で、私は敢えて君に言いたいのだが、一人で静観するのではなく、「隗より始めよ」で自分から動くことをお考えなさい。自分から政治を動かすべく挑戦してごらんなさい。私たち国民は主権者であって、政治を動かすのは一人一人の国民なのだ。同じ疑問や不満は他の仲間たちも持っているかも知れない。それを確かめ合えばよいではないか。政治とは同意を調達することだ。共感を獲得することだ。そして合意を形成することだ。それが政治だ。だから政治は、まず一人が他の一人を説得するところから始まる。一対一から始まる。政治は一対一の説得と合意が基本で、常にその原点に還る。多数を組織し動員するためには、まず一人を説得するところから始めなければならない。政治に哲学が必要なのは、哲学がなければ一人を説得することができないからである。挑戦せよ。隗より政治を始めよ。哲学を勉強せよ。
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